◆杉原千畝さんと敦賀港

 福井県敦賀市で20日、故杉原千畝さんの夫人、幸子さんを招いて講演会やパネルディスカッションが開かれます。

 杉原千畝さんのことは、ナチス・ドイツに迫害されたユダヤ人難民に「命のビザ」を発給した博愛の外交官として、多くの方に知られています。

 しかし、なぜ北陸の小都市、敦賀でそのような催しが開かれるのか、に関しては案外知られていないのではないでしょうか。

 「命のビザ」を手にしたユダヤ人がアメリカなどに逃れるために上陸したのが敦賀港だったのです。

 千畝さんはバルト3国の一つ、リトアニアのカウナス領事代理だった第2次世界大戦中の1939年から40年8月にかけて、ユダヤ人難民に日本通過のビザを発給し続けました。

 その通過地として、千畝さんがビザに書き込んだのが当時、国際港だった「敦賀上陸」でした。

 外務省の資料によると、発給したビザは2139人ですが、その数は6000人とも1万人ともいわれています。

 ビザを入手できたユダヤ人たちは、着の身着のままでカナウスを出立し、モスクワからシベリア鉄道に乗りました。

 スベルドロフスク、ノポシピルクス、イルクーツク、ハバロフスクへと苦難の逃避行を続け、ウラジオストクまでやって来ました。

 ウラジオストク港からは当時、敦賀港間に定期航路がありました。敦賀駅から東京駅間に国際列車も運転されていました。

 ユダヤ人は「はるぴん丸」、「天草丸」などの客船で敦賀港に上陸して東京へ向かい、そしてアメリカへと逃れていったのです。

 千畝さんは、逃走に安全な場所として、当時、国際的に知名度のが高かった敦賀港を選んだのでしょう。

 日本政府の訓令に反し、職を賭けた博愛のビザの発給は、1993年にスピルバーグ監督が発表した映画「シンドラーのリスト」をきっかけに「日本のシンドラー」として、多くの人に知られるようになりました。

 博愛のビザで命を長らえた人の中には、その後、政治家として、また経済人として国際的な活躍をした人、している人が少なくありません。

 私は敦賀市に転居する6年前まで、恥ずかしいことですが、最初の寄港地が敦賀港であったことを知りませんでした。

 敦賀といえば「原発銀座」の一角を占め、マスコミの話題に上るのは原発がらみの事故がほとんどです。

 このような催しが開かれることに嬉しくなりました。少しでも多くの人に「敦賀には、こんな一面もあったのだ」と知ってほしいと願っています。