◆あの日から丸7年

 「激震に体が浮いた!」。

 1995年1月17日の日記の書き出しです。7年目の「あの日」がやって来ました。

 私の人生観を変えた阪神大震災。毎年のことながら、私は粛としてこの日を迎え、そして送ります。

 当時、私は兵庫県西宮市の公団武庫川団地で単身生活していました。退職を間近に控え、妻は現住地に建てた新居にひと足早く転居し、短期間のやもめ暮らしだったのです。

 前夜遅くに帰宅し、眠りについたのは17日午前2時ごろ。
 「ズシン」と背中を押し上げるものすごい衝撃に目を覚ましたのは3時間ほど後のことでした。

 続けざまに突き上げるような衝撃が2度、3度。布団の中でも体が浮くような激震。直後、激しい横揺れが始まりました。

 暗闇の中で「ゴトン」、「がちゃん、がちゃん」。部屋中に衝撃音が飛び交い、その時になって「こりゃ、地震だ」と判断できました。

 しかし、情けないことに身動きしたり、何か行動を起こすといった勇気はまったくなく、ただただ布団の端をわしづかみにして揺れに耐えているだけでした。

 揺れがおさまって数刻後、布団の上にスーツやコートがハンガーと一緒に降っているのに気づきました。

 寝床の横の洋服ダンスに収納していたのが、落っこちたのです。

 戸外から人のざわめきが聞こえ、やや明るくなった部屋を見てびっくりです。テレビが大きく移動し、わずかばかりの食器が壊れたりしています。

 枕元のラジオのスイッチを入れると、神戸を中心とした大地震で、かなりの被害が出ているらしいとの情報を得ることができました。

 とっさに考えたことは、「とにかく会社に出なければ」でした。当時私は、ある新聞社で紙面編集に携わっていましたので、出社しないことには読者に情報を提供することもできません。

 大急ぎで身支度をし、階段を駆け下りて仰天しました。団地のいたるところが泥沼と化しているのです。

 海岸を埋め立てた造成地。液状化現象でした。小山のように盛り上がった個所があるかと思えば、高層住宅の土台部分がごっそりえぐられています。

 何とか表通りのタクシー乗り場へ。すでに10人ばかりの列ができていました。
 いらいらしながら待つこと1時間ばかり。タクシーが止まってくれました。「大阪へ行く人いませんか」。運転手の絶叫に4人が応じました。もちろん私もその1人です。

 タクシーは深夜、神戸へお客を送って引き返すところだと言います。
 「神戸方面は大変や。高速道路が傾いたり、マンションが倒れたりしていたで」。

 状況をつかめにまま飛び出したのですが、運転手の目撃談によって「ただならぬ地震」の様子がわかってきました。

 「倒壊した家から助けて、という叫びを聞いたが、この状況では大阪へ戻れなくなるかもしれんので…」。

 道路はいたるところに陥没やひび割れができて大変な渋滞。沿線の家々も半壊したり、瓦がずり落ちたりしています。
 悲惨な状況は尼崎市を過ぎるまで続きました。

 淀川を渡って大阪にたどり着いたのは、午後3時になっていました。意外なことに別世界のような穏やかさです。

 夕方には会社に入り、何とか作業をこなすことができました。

 これが私の1995年1月17日。阪神大震災体験のあらましです。

 その後、わずかな水を得るのに長時間列を作ったり、電気やガスのない生活を強いられもしましたが、幸いなことに被災は微々たるものでした。

 しかし、「もしや」という反省もありました。布団に降ってきたのがスーツなどだから無事だったものの、あれが額縁だったりしたら…、など、などです。

 入院中の病院が被災し、別の病院に移された直後に死亡した先輩、購入したばかりのマンションが倒壊した後輩、高価な備前焼をことごとく割ってしまった先輩…。様々な人生模様が描き出されもしました。

 「震災体験で得たものは?」と問われれば、即座に「シンプル イズ ベスト」と答えます。

 どんなに栄華な暮らしをしている人も、みんな自然のメカニズムの中に生かされているのだということを痛感しました。
 
 「驕ってはならない。あるがままの生活を」。私はそんな余生を送りたいと願っています。

 1月17日。私には「生きるとは、なんぞや」を問われる日になりました。