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◎6月12日(金)曇・晴・曇 (2日目)
 ワルシャワ→ジェラジョヴァ・ヴォーラ→ワルシャワ泊

●今日の予定
 きょうは午前中、ワルシャワ市内を観光し、午後は郊外にあるショパンの生家を訪問、ピアノのソロ演奏を聴きます。盛りだくさんで、かなりハードな観光になりそうです。
 5:00近くまで眠って、疲れが少しばかりとれました。予報通り、怪しげな雲行き。4階の廊下からは文化科学宮殿や聖十字架教会、カルメル教会が望めますが、重く垂れ込めた雲が背景では冴えません。

●朝食
 朝食は6:30から。ハム、ソーセージ、チーズは数種、ニシンの酢漬けもありました。ソーセージやカマンベールチーズが美味しくて、うれしい朝食です。
 部屋に戻って、日本語のテレビが見られるという27チャンネルを開いてみました。音声だけの放送。日本経済がやや上向き、とのニュースが目玉でした。

●サスキ公園
 ホテルの目の前にピウスツキ元帥広場、その奥にサスキ公園が広がっています。添乗員S・Dさんらと一緒に出かけてみました。
 サスキ公園は、18世紀に当時のポーランド国王アウグスト2世の命で造園されました。豊かな緑の中に噴水や花壇、いくつもの女神像を配した市民の癒しの場です。ワルシャワは公園の多い町。ワジェンキ、クランシスキなど大小の公園を合わせると、市の面積の25%を占めているそうです。

●無名戦士の廟
 ピウスツキ元帥広場のサスキ公園寄りに、無名戦士の廟が建っています。国の自由を守るために闘い、犠牲になった戦士を慰霊するため、1925年に設けられました。長方形の廟内には、永遠の平和を願う灯火が揺らいでいます。
 廟の左右に直立不動の衛兵。1時間毎に交代式が行われます。8:00ちょうど。銃を捧げた2人の衛兵が足を高く上げ、腕を大きく振って近づき、隊長の号令のもと、凛々しい交代ぶりを披露してくれました。

●明るい町
 8:40、バスでワルシャワ市内の観光に出発。「ジェインドブリー(おはようございます)」。アリーツィアさんの元気な声で、20日まで正味9日間の観光がスタートしました。
 バスは町の南にあるワジェンキ公園を目ざしています。第2次世界大戦後、ソ連の影響下にあった町なので、ロシア風の建物が多いのではと想像していましたが、車窓から眺める新市街の町並みは近代的な明るい建物ばかり。赤と黄色のトラム(路面電車)が似合います。

●ソ連の匂い
 昨夜から目にしている文化科学宮殿が車窓をよぎりました。ソ連時代に建てられたスターリン様式の厳つい建物。「市民はソ連の墓石と呼んでいますよ」とアリーツィアさん。
 コンクリートの殺風景な建物が並ぶ一角も通りました。「ここだけがソ連時代の名残」だそうです。黒澤明監督の映画に啓発されて、日本語を勉強するようになったという彼女。時に四字熟語も飛び出して、感心させられます。

●ワジェンキ公園
 ワジェンキ公園には15分ほどで到着。ポーランド王国最後の王だったスタニスワフ2世が1766年から着工し、完成させたヨーロッパでも有数の公園です。
 夏の離宮だったので、大きな池の畔にはロココ調のワジェンキ宮殿(水上宮殿)が建っています。現在は国立博物館の分館として、17-18世紀の美術品を展示しているそうです。

●ショパンの像 
 「バラ園にショパンの像があります」。アリーツィアさんの後について進むと、大木の根っこに腰掛けたショパンの姿がありました。左手を膝の上に置き、伏し目がちの顔を横に向けたブロンズ像です。
 別の場所に建てられた像が破壊されたため、1958年にこの場所に再建されました。大木は「しだれ柳」ということです。ショパンはポーランドが生んだ偉大な作曲家。

●ヤン3世の像
 池に架かる橋の上には、ポーランド国王ヤン3世ソヴエスキ(在位1674-1696年)の騎馬像が建っています。近隣諸国に侵略されて荒廃した国の建て直しに尽力。卓越した軍事的才能で華々しい戦果を挙げた名将として、国民の信頼が厚かった王です。
 1683年のウィーンの戦いでトルコ軍に勝利。敵のトルコ人に「レヒスタンの獅子」と呼ばれて怖れられたと伝えられています。馬の足もとには、トルコ人らしい像が恐れを成して顔をゆがめていました。

●ワジェンキ宮殿
 橋を挟んで対面に建つのが2階建てのワジェンキ宮殿です。生憎の曇り空なので、水面に影を映す優雅さは見られませんが、池を跨ぐ姿は水上宮殿と呼ばれるにふさわしい佇まいです。
 正面に回ると、入口に並ぶ4本の列柱はコリント様式で、柱頭にはアーカンサスの葉があしらわれていました。宮殿のアイドルという数羽のクジャクが観光客を怖れることもなく、悠然と散歩していました。  

●蜂起の舞台
 公園内には他にも、白い家と呼ばれるミスレヴィッチ宮殿や別館、ユゼフ・ピウスツキ像などが建っています。ワジェンキとは「浴場」の意味。点在するどの建物にも浴場があったので、この名がついたということです。
 メイドなどが使った別館は、その後、士官学校などに利用されました。1830年11月蜂起の場所にもなり、建物の前に指導者の像が建っています。ワルシャワではロシアやドイツに対抗する蜂起事件が何度も起こり、その度に鎮圧されていますが、このときはロシア占領に反攻して立ち上がったもの。ワルシャワ大学の教授や学生も加わりました。

●歴史に翻弄
 スタニスワフ2世の時代、ポーランドは3度目の3国分割によって地図上から姿を消し、宮殿もロシアに売却されました。
 返却された後も第2次世界大戦中にドイツ軍によって破壊されたり、美術品を持ち去られるなど、歴史にもてあそばれました。 

●聖十字架教会
 バスは市の中心部へ引き返しました。徐々に青空が広がって願い通りの好天に。まず訪れたのは聖十字架教会です。1679年から1696年にかけて建造されたバロック様式の教会ですが、ドイツ軍に爆破されて、壊滅的な打撃を受け、戦後に修復されました。
 教会には作曲家でピアニストのフレデリック・ショパンの心臓が安置されているので、音楽ファンには見逃せない聖地です。正面に十字架を背負ったキリスト像がありました。

●ショパンの心臓
 バロック様式の教会らしく、内部は金ぴかの像が光彩を放ち、立派なパイプオルガンもありますが、観光客のお目当てはショパンの心臓が納められているという柱です。それは祭壇に向かって左側の柱。ショパンの肖像の下に銘板が嵌め込まれています。
 心臓は第2次世界大戦の最中、亡骸が葬られているパリの墓地に移されました。教会が再建された後の1945年10月17日、ショパンの命日に祖国に戻されたそうです。

●コペルニクス像
 聖十字架教会の斜め前に建つ国立科学アカデミーの敷地に、地動説を唱えたコペルニクスの像があります。長髪のコペルニクスが台座に腰掛け、左手に天球儀を持ったポーズ。像の前の敷石には太陽と地球の位置関係を示したモザイク画も描かれていました。
 ポーランドが生んだ偉人の1人、コペルニクスについては生誕地のトルンを訪れたときに、改めて触れる機会があると思います。

●クラクフ郊外通り
 ホテルに戻って小休憩した後、王宮に至るクラクフ郊外通りを徒歩で北上しました。昔、国王が通った「王の道」といわれる、ワルシャワのメイン通りです。
 衛兵が立つラジヴィウ宮殿(現大統領府)、1899年に開業したネオルネサンス様式のブリストル・ホテルなど名だたる建物が並んでいます。

●パネル展示
 前方に王宮の時計塔やジグムント3世像が見えてきました。王宮広場の手前に建つ聖アンナ教会周辺の路上に、戦災で破壊された町の様子、ソ連侵攻などの歴史、復興にかける市民の生き様などを紹介する写真パネルが展示されていました。
 復興の参考にされたという、ベルナルド・ベッロットの絵画のコピーも展示されていて、現在の町並みとを見比べられるようになっています。

●ワルシャワ旧市街
 ワルシャワの旧市街にやってきました。今日の観光テーマである「ポーランド人の愛国心」の本拠です。観光の前に少しばかりの予習です。
 首都ワルシャワは13世紀に誕生しました。13世紀ごろ、ヴィスワ川のほとりに土塁を設けた小さな村落ができ、それが旧市街の元祖といわれます。14世紀後半に煉瓦づくりの城壁が造営されて城郭都市の体裁を整え、水路の要衝として発展しました。

●北のパリ
 15世紀から16世紀にはバルバカンと呼ばれる砦が設けられ、1596年にジグムント3世がクラクフから遷都、1611年に首都になると、町づくりがますます活発化。全長1.5kmの城壁に囲まれた旧市街は、市街広場を中核に王宮や聖ヤン大聖堂などが次々に建設、増築され、「北のパリ」といわれる美しい町並みが形成されました。

●空爆被害
 商業や行政の中心だったワルシャワは、第2次世界大戦末期の1944年8月、ナチス・ドイツ軍による空爆などで、町の大半が灰燼に帰しました。とくに旧市街の被害がひどく、歴史的建造物の90%が破壊され、全市で20万人が犠牲になったそうです。
 無差別爆撃のきっかけは、ワルシャワを占領しているナチス・ドイツに対して、軍と市民が立ち上がった「ワルシャワの蜂起」でした。市民はわずかな武器を手に63日間も戦い、その間に2万人が命を落としました。

●町並み復元
 空爆によって廃墟と化した旧市街は戦後、「煉瓦のひび割れの一つにいたるまで忠実に再現」したと讃えられるほど見事に再生され、中世の面影を取り戻しました。奇跡の復元が成し遂げられた主な背景として、次の3点が挙げられます。
 ①市民の不屈な情熱、②イタリア・ヴェネツィア出身の画家ベルナルド・ベッロットが描いた18世紀の都市風景画(ヴェドゥータ)、③ワルシャワ大学建築学科の学生が克明に描いた町並みの写生です。

●絵や写生
 ベッロットの風景画は18世紀後半、国王スタニスワフ2世の命で描かれました。町並みを丹念に描いた作品20数点が戦禍を免れて保存されていたのです。また、学生たちの写生は、戦火の中で町並みを記録に留めようと、建物の外観などを詳細な図面にしました。
 復興作業は、絵や図面を参考にしながら進められました。丹念に拾い集めた瓦礫を、忠実に復元させる難事業だったといいます。市民も資金協力し、すべての修復が終了するまで15年かかりました。市民の不屈の魂によって、往時の姿そのままに蘇った町並みは、後の世界遺産登録に結びつきました。

●世界遺産
 旧市街と、その周辺地域が
「ワルシャワ歴史地区」として、世界文化遺産に登録されたのは1980年のこと。審査の際、破壊から復元された文化財は遺産に値しないとの意見もあって、登録が危ぶまれました。
 しかし、市当局や大学が「破壊と復興の証人」であると主張して、関係者を説得したそうです。その結果、市民の汗と記憶と執念が評価され、「破壊からの復元および維持への人々の営み」という理由によって、世界遺産登録が決まったということです。

●旧王宮
 旧市街に建つ赤煉瓦づくりの旧王宮は、この地を治めていた領主の館でした。ポーランド王国が1611年にクラクフからワルシャワに移されたのを契機に、その館を地上3階、地下1階の王宮に改築しました。
 1階は召使いの部屋や図書室、旧下院会議室など、2階は大理石の間、騎士の間、王座の間、謁見の間、小礼拝室など。3階には勲章などが展示され、時計塔が建っています。王宮前の広場にはジグムント3世像が聳えていました。私たちは外観だけの見学です。

●忠実に復元
 王宮もドイツ軍の集中爆撃やダイナマイトを仕掛けられて廃墟に。1971年から再建工事が始まり、17年かけて細部にいたるまで忠実に復元されました。2階の大円舞場には、瓦礫の中から見つかった大理石や化粧漆喰の破片が使われたそうです。
 また、ワルシャワ蜂起の時に隠した美術品や装飾類も戻され、現在の豪華さを蘇らせました。王宮の一部は現在、博物館になっています。

●激動の歴史
 王宮最後の住人は、ロシア女帝エカティリーナの愛人だったスタニスワフ2世。ポーランドを思いのままにしたい女帝は、恋人だったポーランド貴族のスタニスワフを国王に擁立しました。
 しかし、彼は議会制度を見直す改革を進めるなどして、女帝の反感を買ってしまいます。女帝は邪魔者になったスタニスワフ2世を軟禁し、その間にポーランドを分割し、1795年には王国を消滅させました。スタニスワフ2世は3年後に世を去りました。

●ジグムント3世像
 王宮広場に聳えるジグムント3世の像は、赤い大理石の塔。高さ22mの天辺に立つのは、クラクフから遷都し、ワルシャワをポーランド王国の首都にした王です。3世の息子ヴァワディスフワ4世が王を偲んで1644年に建造しました。
 イタリアの彫刻家が手がけた塔は、バロック様式の装飾が施され、ロシアのピョートル大帝も美しさに驚嘆したと伝えられています。「北のパリ」の礎を築いた3世の像は、ワルシャワの戦災復興第1号として1949年、真っ先に復元されました。

●聖ヤン教会
 王宮広場から続く聖ヨハネ通りに、赤煉瓦づくりの聖ヤン教会が建っています。14世紀の建造で、上部がハンザ同盟都市でよく見かけるギザギザ装飾。ワルシャワで最古のゴシック様式教会といわれます。細い通りなので、写真を撮るのがひと苦労。
 教会では歴代ポーランド国王の戴冠式、また、1791年にはポーランド最初の憲法発布式が行われるなどの歴史を秘めています。 

●キャタピラ
 パイプオルガンもワルシャワ最古だそうですが、時間の余裕がなくて教会内は見学できませんでした。外壁の一部に震災当時の煉瓦が使われ、戦車のキャタピラが嵌め込まれていました。
 説明のプレートがありましたが、ポーランド語なのでよく理解できません。アリーツィアさんは「ドイツ軍に占領された屈辱の日々を忘れないために埋めました」と言っていました。

●旧市街広場
 ワルシャワ歴史地区の中心、旧市街広場に出ました。かつての砦、バルバカンの左右に城壁が残る長さ約100m、幅75mの広場です。周囲には4階建てに統一された建物が整然と並んでいました。
 建物には汚れや染み、ひび割れなどもあって、中世の町並みが息づいています。しかし、これはすべて破壊から復元されたもの。建物の汚れや古さ、壁の割れ目、屋根の傾きばかりでなく、屋根の瓦1枚1枚、足もとの敷石1個1個までもが往時のままに復元されたと聞いて、ただただ驚くばかり。 戦後復興のシンボルといわれる所以です。

●賑わい
 陽光に生えるカラフルな建物。きれいな町並みです。中央にはワルシャワの紋章である剣を持つ人魚像が建っています。
 広場には露天の画商やオープンカフェ、民芸品店が並び、観光客相手の似顔絵書きもいて、なかなかの賑わいぶり。町を愛する市民の魂が凝縮された、町並みが陽光を浴びて誇らしげです。ここだけは青空のもとで見てみたい、と思っていたので、念願が叶いました。

●ズオーティ両替
 昼食は広場のレストラン「kamienne Schodki」で。ブロッコリーのクリームスープ、ビフテキ、自家製のアイスクリームでした。スープは塩加減もよく、美味しかったです。
 食前に現地通貨のズオーティ(zl)に両替しました。ユーロー、米ドルでチェンジでき、妻はユーロから替えてもらいました。1ユーロが4.2ズオーティ(zl)、日本円に換算すると1zlは33円から34円見当。11日に成田空港で両替したユーロは141円34銭でした。

●バルバカン
 広場を囲む家々の外壁に凝った装飾が施され、もっともっと見ていたいのですが、先を急ぎます。馬蹄形をした赤煉瓦の建物が現れました。旧市街の北側に残る、かつての砦、バルバカンです。
 旧市街への関所なので、本来はこちらから旧市街広場に入るのですが、私たちは逆コースです。バルバカンは16世紀に造営されたバロック様式。内部は火薬庫や牢獄として使われたといわれます。半円形の砦は珍しく、ヨーロッパでも数少ないとか。ここも戦災を受け、1954年に復元されました。内部には琥珀や民芸品を売る土産物店があります。

●キュリー夫人博物館
 バルバカンを抜けて、さらに北に歩くと、キュリー夫人の博物館があります。生涯で2度もノーベル賞を受賞したポーランドの偉人、マリア・スクウォドフスカ(キュリー)は1867、3階建てのこの家で生まれました。
 現在は博物館として公開されており、夫人が使っていた実験道具や家具調度、研究資料などが展示されていますが、内部の写真撮影は禁止でした。博物館は1967年、生誕100年を記念してオープンしました。

●ノーベル賞 
 キュリー夫人は教師の家庭に生まれ、幼いときから勉強熱心でした。パリのソルボンヌ大学を卒業後、ピエール・キュリーと結婚。夫とともに放射能の研究に勤(いそ)しみました。夫婦は放射性元素のポロニウムとラジウムを発見、その功績が認められて1903年、第3回ノーベル物理学賞を受賞。
 キュリー夫人は夫の死後も研究を重ね、1911年にはラジウムの分離に関する研究でノーベル化学賞を受賞しました。しかし、研究の影響で白血病を患って1934年に他界。66年の生涯でした。祖国を愛する気持ちが強く、ポロニウムはポーランドにちなんで命名されたということです。1643年にはアメリカ映画「キューリー夫人」も公開されました。娘夫婦も1935年にノーベル化学賞を受賞しています。

●観光馬車
 博物館の近くにキューリー夫人が洗礼を受けたという聖ヤツェク教会や聖霊教会が建っています。聖ヤツェク教会は白亜の瀟洒な建物。旧市街の北の外れなので、行き交う観光客も少なめです。
 観光馬車が石畳を蹴り、パカパカと心地よいひずめの音を響かせて通り過ぎて行きました。ワルシャワには歴史地区を回る観光馬車が大繁盛。あちこちで見かけます。

●蜂起記念碑
 先回りしていたバスに乗って
ワルシャワ蜂起の記念碑へ。ナチス・ドイツを相手に戦った反抗のモニュメント。ベルリンの壁崩壊後の1989年8月に建てられました。
 銃を手に敵陣へ乗り込もうとする兵士や市民のブロンズ群像が躍動感いっぱいに表現されています。ワルシャワ蜂起とは、第2次世界大戦末期の1944年8月1日に起こったワルシャワ奪回のための闘いです。道路を挟んだ向かいには、軍事教会と呼ぶきれいな教会が建っていました。

●63日間の抵抗
 ワルシャワを占領していたナチス・ドイツ軍は、当時、ソ連軍のバグラチオン作戦に敗れて多くの兵士が敗走。ドイツ側の防備が手薄になったのを狙い、5万人のポーランド軍と市民がワルシャワ奪回のために蜂起しました。
 しかし、行動を共にするはずだったソ連軍は、ドイツ軍の反撃で戦意を失って市内への進軍を停止。孤軍奮闘のポーランド軍は63日間戦い抜きましたが、10月2日ついに降伏しました。勢いづいたドイツ軍は、ここぞとばかりにワルシャワを無差別爆撃。町は徹底的に壊滅されました。旧市街の90%が灰燼に帰したのはこのときでした。

●車窓風景
 観光はまだ続きます。14:00、バスが向かったのは西約50kmのジェラゾヴァ・ヴォーラにあるショパンの生家です。沿道にはポピーや菜の花が咲き、白い花をつけたジャガイモ畑が広がり、麦畑が緑の絨毯を敷き詰めていました。
 放牧の牛ものんびり。長閑な田園風景が疲れを癒してくれます。車内にはショパンの曲。これから生家でピアノ演奏を聴くことになっているので、S・Dさんが気分を高めようと解説付きで流してくれました。

●ジェラゾヴァ・ヴォーラ
 15:10、ジェラゾヴァ・ヴォーラに到着。銘板がかかった門を入り、緑の公園を進むと、ショパンの生家がありました。小さな家で、現在は博物館として公開されています。
 ショパンが生まれた部屋、母の部屋、客間などに出生証明書、両親の婚姻届の写しなどが展示されていました。ただし、館内の写真撮影は禁止。生家もドイツ軍の攻撃で破壊され、1945年にそっくりさんに復元されました。

●ピアノ演奏
 生家ではピアノ演奏を聴くことができます。私たちもコンサートホールの一室に通され、ミュージックアカデミーのマチエイ・ポリシェウスキ教授の演奏を聴きました。
 演奏は「バラード第1番ト短調 作品23」に始まり、「3つのマズルカ 作品 41の1、2、3」、「スケルツォ第2番 変ロ短調 作品31」、「英雄ポロネーズ 変イ長調 作品53」など5曲。久しぶりに聞くピアノの生演奏。迫力と繊細さに感じ入りました。 

●順番待ち
 ショパン大好き人間のS・Dさんの感動ぶりは並外れていました。「素晴らしい」、「素晴らしい」を連発して夢心地の体。みなさんも満足して席を立ちました。戸外には見学の順番を待つ観光客が大勢並んでいました。
 生家の周辺では2010年のショパン生誕200年記念事業に備えたコンサートホール建設が進み、生家も改修工事に入るそうです。アリーツィアさんは「ピアノ演奏が聴けるのは、年内は私たちが最後」と言っていました。

●ショパン
 フレデリック・ショパン(1810-1849)は、わずか39年の生涯にバラード、スケルツォ、前奏曲、練習曲、夜想曲、ワルツ、マズルカ、ポロネーズなど、幅広い分野に優れた作品を残し、「ピアノの詩人」と讃えられました。
 前奏曲15番の「雨だれ」、練習曲の「木枯らし」や「別れの曲」、ワルツの作品18「華麗なる大円舞曲」、また「軍隊ポロネーズ」などは、どれも1度は耳にしたことのある馴染みの曲です。ショパンの生涯については、数多く紹介されているので省略しました。

●ゲットー跡
 ワルシャワ市内に戻って訪れたのは、北部のムラヌフ地区にあるユダヤ人隔離居留地のゲットー跡。現在は記念広場になっていて、石壁の英雄記念碑が建っています。
 ユダヤ人を受け入れていたポーランドには、第2次世界大戦時には300万人ものユダヤ人が住んでいました。しかし、ポーランドを占領したナチス・ドイツ軍は、ムラヌフ地区からポーランド人を追い出して、ユダヤ人の隔離居留地を設け、郊外に住んでいたユダヤ人を強制的に移住させました。

●ゲットー蜂起
 いまは跡形もなくなっていますが、一時は30万人とも40万人ともいわれるユダヤ人が押し込まれていたといいます。移住者はアウシュビッツかトレブリンカの強制収容所に送られ、殺戮される運命にありました。
 死を悟った移住者たちは1943年4月19日、ドイツ軍に反抗する武装蜂起を試みました。世に「ワルシャワ・ゲットー蜂起」といわれるものです。戦闘は5月16日まで続き、最後は鎮圧されました。

●英雄記念碑
 英雄記念碑はユダヤ人組織の募金によって、ゲットー蜂起5周年の1948年4月19日に除幕しました。石壁の真ん中にレリーフが嵌め込まれています。
 正面は「戦い」のレリーフ。中央にはリーダーのアニエレヴィッツがいます。回りの人物像も「ダビデの星のもと、いざ戦わん」といった決意のほどが表現されていました。裏面は「絶滅への行進」のレリーフ。無抵抗のまま収容所に連行される人たちが描かれています。  

●皮肉な石壁 
 浮き彫りを囲む壁の石材は、ドイツ軍がヒトラーの像を建てるため、わざわざスウェーデンから運んだもの。ゲットー蜂起の記念碑に使われるとは、ヒトラーもあの世で苦笑しているでしょう。
 ゲットーは映画にもなりました。2005年にスウェーデンで制作された「ワルシャワ・ゲットー~ユダヤ人強制隔離居住区」。ユダヤ人生存者ニーナの証言をもとに構成されたドキュメンタリードラマです。

●戦場のピアニスト
 「先ほど演奏されたバラード1番が青年の命を救いました」。アリーツィアさんが切り出しました。第2次世界大戦時を素材にした映画「戦場のピアニスト」で、ユダヤ人隔離居留地に移された青年がピアノを演奏し、感銘を受けたドイツ兵が彼の強制収容所送りを取りやめた場面があります。
 その時演奏した曲がバラード第1番だったそうです。映画はフランス・ドイツ・ポーランド・イギリスの共同制作。公開と同時に大きな反響を呼び、2002年のカンヌ国際映画祭で最優秀作品賞、米国アカデミー賞最優秀監督賞・最優秀主演男優賞など、数多くの賞を総なめにしました。

●有意義な1日
 これで初日の観光はすべて終わりました。見どころが盛りだくさんなので、急ぎ足の観光でしたが、好天に恵まれたのが何より。
 戦災から復興した旧市街、ゲットーなどを通じて、ポーランドの歴史も少しずつ読み取れるようになり、有意義な1日でした。

●自己紹介
 夕食は市内のレストラン「Honoratka」で。1826年創業という雰囲気のある老舗です。酢漬けキャベツの炒めもの、ヒラメのレモンソースかけなどでした。名物だという蜂蜜入りのワイン(ミュート)を飲んでみました。参加者の自己紹介もあり、私たちを除く全員が関東地方からの参加者でした。
 添乗員の話によると、昼食と夕食後は必ずコーヒーか紅茶がつくそうです。これはありがたい。昼食にクロスグリとアップルジュースを注文。それぞれ6zl、夕食時のミュートは9zl。昼、夕食ともパンが出ませんでした。これらを参考にこれからの旅を楽しみたいと思います。

●クラクフ通り散策
 ホテルに戻った後、すぐにクラクフ郊外通りの散策に。ヴィジトキ教会やラジヴィウ宮殿(現大統領府)、アダム・ミツキエビッチ像、カルメル教会=写真、国立劇場などを眺め、クラシンスキ宮殿を最後に引き返しました。
 20:30。戸外はまだ明るく、多くの市民や観光客がそぞろ歩いて賑わっていました。



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