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◎6月18日(木)晴 (8日目)
 クラクフ→ヴィリチカ→クラクフ泊

●今日の予定
 きょうはクラコフ歴史地区とヴィリチカ岩塩坑を観光します。どちらも期待の世界遺産。観光テーマは「ポーランド大国の栄華」。時間をかけて、しっかり見たいものです。 
 4:10、上空一面が赤く染まっています。カメラを手に飛び出しました。廊下の窓から撮った写真に教会が写っています。ヴァヴェル城近くに建つ聖ベルナルド教会のようです。

●朝のラッシュ
 朝食はひと通りのものが揃い、ニシンの酢漬けもありました。廊下からヴァヴェル城も望めます。7:00すぎになって、トラムを乗降する通勤客が増え、バスも行き来が激しくなりました。朝のラッシュが始まったようです。
 ワルシャワのほかに地下鉄がないポーランドでは、路面電車が大活躍。ホテルから旧市街の観光に出かける場合はトラムに乗るのが便利、といわれているので、初めて乗る機会があるかも知れません。

●ヴィスワ川畔
 8:00、ヴァヴェル城を近くで見られるヴィスワ川まで散歩しました。快晴。薄手の長袖シャツにベストでも暑く感じます。国内でもっとも南に位置する都市。日差しの強さを肌身に感じます。
 河畔では釣り人がのんびり糸を垂れ、ヴァヴェル城が水面に影を落としていました。ヴィスワ川に架かる橋の中ほどまで歩いて引き返しましたが、気持ちの良い散歩でした。

●カジミェシュ地区
 9:00、市内観光に出発。まず、市の南東にあるカジミェシ地区へ。かつてのユダヤ人街で、映画「シンドラーのリスト」の舞台にもなった場所です。現在もシナゴーグ(ユダヤ人教会)が点在し、独特の雰囲気が漂っています。
 カジミェシ地区は、ユダヤ人を受け入れたカジミェシ3世によって、1335年に設けられました。地区にユダヤ人が集中するようになったのは1495年以降。アラブ人がユダヤ人を殺害する反ユダヤ運動のポグロムを怖れた、ユダヤ人の逃げ場として利用されたようです。

●ユダヤ人街
 第2次世界大戦のころ6万人のユダヤ人が住み、ヨーロッパ最大規模のユダヤ人社会を形成していました。しかし、1941年3月、ナチス・ドイツによって、ヴィスワ川対岸のポドグジェ地区にユダヤ人居留地(ゲットー)が設けられ、約1万5000人が強制移住させられました。
 ゲットーは2年後に廃止され、ユダヤ人たちは殺されたり、強制収容所に送られたりしました。カジミェシ地区の迫害の様子は、スティーヴン・スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」(1993年)で、広く知られることになりました。

●広場の周辺
 講釈はほどほどにして、地区の見学です。小さな広場の回りにユダヤ料理のレストランや土産物店、シナゴーグ、小さなホテルなどが並んでいます。広場の中ほどには、ダビデの星がついた6万5000人の追悼碑があり、地区の来歴などを刻んだプレートが大石に嵌め込まれていました。
 ユダヤ人街と聞いて、特別な町を想像していましたが、他にも団体の観光客がわいわい、がやがや。表面は普通の観光地と変わりませんでした。

●特別の計らい
 本当の姿は路地にありそうですが、私たちは先を急ぎます。近くには映画の舞台になった工場跡もあると聞いていますが、見ることは出来ませんでした。
 もともと、観光日程には入っていなかったのですが、サービスで案内してくれたようです。明日のフリータイムに個人で訪れたいと思っていた場所なので、少しだけでも見ることが出来たのは、ありがたいことでした。

●シンドラーのリスト
 映画「シンドラーのリスト」は、狡猾な実業家オスカー・シンドラーがユダヤ人に博愛の心を抱くようになるまでの軌跡を描いた作品です。シンドラーは実在のドイツ人。ユダヤ人を安い賃金で雇って暴利を得ていましたが、ナチス・ドイツのユダヤ人虐待を目の当たりにして、だんだんユダヤ人に同情、博愛の心が目覚めました。
 最後は私財を投じて、アウシュビッツ強制収容所送りになる従業員1100人を助けたという内容。クラクフのポドグジェ地区にシンドラーの工場が当時のまま残っており、映画のシーンにも登場した入り口の階段やシンドラーの執務室などを見学することができます。

●クラコフ旧市街
 アリーツィアさんの話を聞きながら、旧市街へと進みました。クラクフの中心は旧市街。洋ナシか茄子のような形です。その中でも面積4万平方kmの中央広場の周辺に織物会館、聖マリア教会、旧市庁舎などの見どころが集中しています。
 タタール人の攻撃を受けた後、自由都市となって商業が発展。ハンザ同盟に加盟して、中欧屈指の交易センターに成長しました。首都として栄えたクラクフは、オーストリアのウィーンやチェコのプラハと並ぶ文化、芸術の中心でした。

●世界遺産
 第2次世界大戦時、ポーランドのほぼ全域が戦禍に曝されましたが、クラクフは奇跡的に戦火を逃れ、旧市街の歴史的建造物も無事でした。クラクフにはドイツ軍司令部があり、米英の連合軍にとってはかっこうの標的でしたが、歴史遺産を破壊すべきではないという意見が強く、戦火を免れたそうです。
 中世のオリジナルの町並みがそっくり残る旧市街を中心とした地区が1978年、「クラクフの歴史地区」として世界文化遺産に登録されました。

●バルバカン
 旧市街の北側に残るバルバカンからフロリアンスカ門を潜って、旧市街に入りました。バルバカンは赤煉瓦づくりの砦。外敵から町を守るため、16世紀に造営、1954年に再建された3層構造の円形防塁です。
 見るからに壁が厚く、堅牢そうです。このような円形の砦は珍しく、ヨーロッパに現存するのは3つ。その中でもバルバカンは最大といわれています。近くのマティキ広場にカジミェシ3世の銅像が建っていました。

●フロリアンスカ門
 バルバカンのそばに建つフロリアンスカ門は、旧市街への北の入口。旧市街を囲んでいた城壁門の一つです。城壁は19世紀に大半が取り壊され、現在は門の周辺に少し残るだけ。城壁の跡は緑地帯になり、路面電車の線路が敷設されて市民の足になっています。
 門は13世紀に建てられた石造りのオリジナル。高さが40mほどあり、塔のような門です。門からフロリアンスカ通りを真っ直ぐ進むと、突き当たりが中央広場です。

●チャルトリスキ美術館
 フロリアンスカ門を入ってすぐのところに、人気のチャルトリスキ博物館が建っています。名門貴族のチャルトリスキ家の収蔵品を展示するため、1801年にオープンしたポーランド最古の美術館です。一時は国立博物館でしたが、現在はチャルトリスキ公爵財団が運営と管理を任された私立の美術館。
 10:00の開館と同時に入場しようと急ぎました。黄色い外観の建物の前にはすでに、団体の観光客が扉が開けられるのを待っていました。

●多彩な展示品
 まず、35zlを払って写真撮影証を受け取り、一方通行の順路に従って見学スタートです。展示品は14-18世紀のヨーロッパ絵画を中心に、鎧などの武具、タペストリー、装飾品、絵画など多分野にわたっています。
 大半は美術館の創設者である、イザベラ・チャルトリスカ公爵夫人(1746-1835)が集めたもの。レオナルド・ダ・ヴィンチの「白テンを抱く貴婦人」やアレクサンドル・ロズランの「イザベラ・チャルトリスカ公爵夫人」のほか、レンブラント、ヴィンチェンツォ・ビアジォ・カテーナらの絵画が人気です。

●白テンを抱く貴婦人
 親切な監視員のおばさんがいました。「あれを撮りなさい」、「あの絵は有名ですよ」などと教えてくれます。はい、はいと写真を撮りながら、進んだ先に来館者最大の注目作品、白テンを抱く貴婦人が展示されていました。
 現存するダ・ヴィンチの油絵3点のうちの1点。題名の通り、女性が白いテンを抱いています。モデルは美貌と知性でミラノ公ルドヴィコ・イル・モーロの寵愛を受けたチェチリア・ガッレラーニといわれています。10代の彼女を描いたダ・ヴィンチは30代だったそうです。

●松明消し 
 写真撮影証を受付に戻したら20zlが戻されました。撮影料は15zl、20zlは保証金だったようです。美術館の近くには、10世紀に建造されたクラクフ最古の聖ヴォイチェフ教会なども建っていますが、私たちはヤギェウォ大学へ向かいました。 
 路地を歩いていたら、建物入口に6つの穴がある柱を見かけました。街灯のない夜道を歩いていた時代に、松明の火を消すために使われたそうです。松明を穴に押し込んでごしごしと消したのでしょう。戦災被害がなかったクラクフだからこそ見られる生活の証。  

●ヤギェウォ大学
 中央広場の近くに建つヤギエウォ大学(クラクフ大学)を目ざしたのには訳があります。11:00のからくり時計を見るためでした。キャンパスの一部を見せてもらい、時間を待ちました。
 ヤギェウォ大学は、14世紀に国家体制を確立したピャスト朝最後の王、カジミェシ3世が有能な人材育成をめざして創設、1364年に開学した国内最古の大学です。とくに天文学、数学、地理学の分野に優れ、当時のヨーロッパでトップ級の水準でした。

●多士済々
 名門校からは多数の優秀な人材が輩出されました。地動説を唱えたニコラウス・コペルニクス 、詩人のヤン・コハノスキ、人類学者のブロニスワ・マリノフスキ、SF作家のスタニスワム・レム、詩人でノーベル文学賞を受賞したヴィスワヴァ・シンボルスカ、ローマ教皇だったヨハネ・パウロ2世ら列挙したらきりがありません。
 コペルニクスは大学で教鞭を執ったこともあり、キャンパス内に像が立っています。

●からくり時計
 11:00と同時に扉が開き、学者らしい数人が順繰りに登場する簡単な仕掛けでした。終わるのを待って、次は聖マリア教会へ。
 学内にはコレギウム・マイウスという建物があり、現在は博物館になっています。15世紀のゴシック様式建築で、歴代の総長のコレクション、中世の職人による家具や装飾品、教材に使用した天文学の器材類、地球儀など大学の所蔵品が展示されているそうです。

●聖マリア教会
 聖マリア教会は、中央広場に面して建つ1222年建造のバロック様式。2本の尖塔は左右の形が違い、高さも違ってます。高い塔は81m、低い塔は69mです。
 「早く、早く」と急かされたのは、木造祭壇の観音扉が開けられる時間が迫っていたから。「今日はよく歩き、時間に追われる日」と聞かされた理由がわかりました。5zlの撮影料を払って、教会に入ると開扉を待つ人が大勢。その後も増えて立ち見の人もいました。

●木造の祭壇 
 11:40、シスターがおもむろに祭壇の観音扉を開けました。ヨーロッパ有数といわれる高さ13m、幅11mの祭壇。彫刻家のヴィオレット・ストウオシが12年の歳月をかけ、1489年に完成させた国宝です。
 観音開きの中央には聖マリアの被昇天、左側にはキリストの誕生、右側にはキリスト復活など、聖母マリアとイエスの生涯が精緻な木彫で描かれていました。中央の人物は身長が2.7mもあるそうです。

●多くの祭壇
 祭壇見たさにクラクフを訪れる人もいるといわれますが、身廊の両側に並ぶ木彫も見応え十分。洗礼者ヨハネ、聖アントニオ、聖セバスチャンらの祭壇です。ブルーの天井やステンドグラスも見事でした。
 祭壇を見た人たちが水を引くように、出口へ向かいました。次の目的は教会の尖塔から鳴り響くラッパの時報を聞くためです。

●ラッパの時報
 聖マリア教会の尖塔からは、1時間毎にラッパの時報が鳴ります。12:00、消防士が吹くトランペットの音が響きました。音は高い塔の小窓から響いているようですが、トランペッターの姿が見えません。
 四方に向かって1回ずつ吹くので、私たちの方角は最後になるとのこと。間もなく、小窓にトランペットが光り、曲が流れました。しかし、音色が尻切れトンボのように途中で止まったのです。なぜ?。その背景には歴史的悲劇がありました。

●ラッパ手の悲劇
 1241年4月9日のこと。教会の尖塔からタタール人の襲来を告げるトランペットが鳴り響きました。ところが、ラッパの音が突然途切れてしまったのです。見張り役のラッパ手が敵の矢に喉を射抜かれて絶命したためでした。それ以後、悲劇を忘れまいと、1時間毎にその時と同じ調子のラッパを鳴らし続けています。
 現在のラッパ手は特訓を受けた消防士。吹き終わると、窓からトランペットを振って愛想を振りまいていました。

●ピエロギ
 これで忙しかった午前の観光はお終い。旧市街の広場に戻り、レストラン「hawelka」で昼食。野菜のスープ、ピエロギ(ポーランド風の餃子)、デザートはクレムフカというケーキでした。
 ピエロギは日ごろ口にする餃子よりはやや大きめ。皿に水餃子風が10個並び、その上にアサツキのような薬味が乗っていました。具は酢漬けキャベツのサワークラウト、チーズ、マッシュルームなど。美味しく、ボリューム満点でした。

●クレムフカ
 クレムフカは「法王のケーキ」として有名です。パイ生地にたっぷりのクリームを挟んだ伝統のケーキ。1999年6月、広場のミサに出席したパウロ2世が子供のころ、クレムフカをよく食べたというエピソードを披露したのがきっかけで、人気が沸騰したそうです。
 いまではクラクフを訪れる観光客の誰もが賞味する、名物菓子になりました。レストランのクレムフカは甘味を抑えた上々の味。豆腐ほどもある大きさでした。

●中央広場
 レストランのある中央広場は、午後になってますます観光客が増えてきました。観光馬車や電気自動車が客待ちしたり、ハトと戯れる親子がいたり、思い思いに時間を過ごしています。
 レストランのオープンカフェも賑わい、画家たちは自作を並べて雰囲気を盛り上げています。広場の真ん中に建っているのは、スキェンニツェと呼ばれる織物会館です。

●織物会館
 聖マリア教会と向き合う織物会館は、13世紀の建造。100mもある横長のルネサンス様式です。当時は織物の取引が活発に行われた取引センターでした。
 現在は1階が土産物売り場。民芸品やアクセサリー、革製品などを扱う小さな店がびっしり並んでいて、観光客で賑わっています。2階は国立博物館。18世紀から20世紀にかけてのポーランド絵画が展示されています。

●旧市庁舎
 織物会館近くの一角には、旧市庁舎の塔が聳えています。市庁舎は1820年、この塔だけを残して取り壊されました。上部に直径3mの大時計が嵌め込まれ、天辺からは鷲の像がにらみを利かせています。
 現在は 市博物館として公開され、牢獄として使われていた地下はカフェやワイン酒場に。塔に上れば、旧市街を一望できるそうです。広場には聖ヴォイチェフ教会も建っていました。

●アダム・ミツキェヴィチの像
 聖マリア教会と織物会館の間に、16世紀のロマン派詩人アダム・ミツキェヴィチの像が建っています。彼の詩はショパンやシューマンの作曲にも大きな影響を与えました。ポズナンには名を冠したアダム・ミツキェヴィチ大学(ポズナン大学)もあります。
 広場の南側に建つ大司教宮殿にはヨハネ・パウロ2世の像があります。パウロ2世はクラクフ大学(ヤギェウォ大学)で学んで祭司になった後、1964年にクラクフの大司教に昇進しました。1978年から2005年までローマ教皇をつとめ、日本を訪問したこともあります。

●観光馬車
 旧市街の観光が終わり、次はヴィスワ川の畔に建つヴァヴェル城の見学です。当初は歩いて行く予定でしたが、1kmばかり距離があるというので、観光馬車に分乗しました。何年ぶりかの体験です。
 クラクフも石畳の多い町。馬車はかちかちと蹄を鳴らし、左右に揺れながら進みます。古い町並みを高みの見物ができて良い気分でした。

●ヴァヴェル城
 ヴァヴェル城は、旧市街南側の高台に建つ歴代ポーランド王の居城です。築城は10世紀。11世紀に王の居城になってからは、歴代の王が増改築を行い、敷地内に大聖堂や王宮などが揃いました。
 城をもっとも壮麗な姿に改築したのは、ヤギェウォ朝ジグムント1世と息子のジグムント2世。ポーランド王国の黄金期といわれる16世紀のことです。ジグムント3世の時代にも改築され、ゴシック、ルネサンス、バロックなどの様式が混在する現在の建物になりました。敷地内には創建当時の遺構も見られます。

●王宮博物館
 王宮は3層建て。現在は博物館として一般公開されています。70を超す部屋があり、謁見の間や騎士の間などを見学出来ます。ただし、城内の写真撮影は禁止です。
 1階は使用人の部屋や図書館、2階は大演舞場と国王のプライベート空間など、3階は勲章の展示室など。

●城内見学
 ジグムント時計塔の門を潜って、城内に入りました。中庭から旧下院会議場へ。2階に上がって大理石の間や騎士の間、王座の間、謁見の間、小礼拝室などを見ました。大理石の間は城内でもっとも美しいといわれ、歴代国王のオリジナル肖像画22枚が飾られています。
 枡目に仕切られた天井に、男女の顔の木彫が嵌め込まれた奇妙な部屋がありました。王や軍人に混じって猿ぐつわをされた女性も。その数は30枚。16世紀には194枚もあったそうです。

●自慢のタペストリ
 城内には調度品や宝飾品、武器、食器、衣装、美術品なども展示されていますが、1番の自慢はジグムント親子が収集したタペストリです。ベルギーのフランドル、アントワープなどの工房から取り寄せたもので、ざっと140枚が展示されています。
 親子は外出するとき、お気に入りのタペストリを持ち歩いたともいわれます。かつては340枚もあったそうですが、国外へ持ち出され、第2次大戦後に一部が戻されました。 

●大聖堂
 ヴァヴェル城の大聖堂は、敷地の北側に建っています。1364年に建造された煉瓦づくりのゴシック様式。聖堂では18世紀まで国王の戴冠式や葬儀が行われました。大聖堂には博物館が併設され、宝物や蔵書、ヨハネ・パウロ2世ゆかりの品々などを展示しています。
 聖堂内にはカジミェシ3世、ヤドヴィガ王女、ジグムント・アウグストゥス王らポーランドの歴代王族の棺が安置され、また、地下の墓所にはアダム・ミツキェヴィチらポーランドの偉人が眠っています。

●カジミェシ3世
 カジミェシ3世はピャスト朝最後の王。1343年に対立していたドイツ騎士団と「永遠の和約」を結ぶとともに、財務長官職を置いて貨幣経済を管理させたり、各種の法典を公布するなどして内政面の充実を推進しました。また、ヤギェウォ大学の創設者でもあります。
 この時代に国力が一気に高まり、26の都市に城壁を築き、51の城を建てて大王と呼ばれるまでになりました。後継者がなく、ピャスト朝は王が病死した1370年をもって断絶しました。

●ジグムント礼拝堂
 金のドームを持つジグムント礼拝堂が大聖堂に併設されています。イタリア人建築家が1533年に建てました。国内でもっとも美しいルネサンス建築と高い評価を受けています。
 北側に聳えるブルーの塔は18世紀初めに建てられたジグムント塔。中には1520年に鋳造された周囲8mという、ポーランド最大の大鐘が吊されています。鐘は宗教行事など特別な場合だけに鳴らされるそうです。

●タデウシ・コシチュシコ像
 王宮の入口近くに、タデウシ・コシチュシコの騎馬像が建っていました。プロイセン、オーストリア、ロシア3国によって行われた、18世紀のポーランド分割に対抗して戦った国民的英雄です。
 彼はクラクフにあるコシチュシコ山に要塞を設け、「ポーランドは不死身だ」と叫んで農民兵たちと立てこもって抵抗しました。

●竜の洞窟
 城内の螺旋階段を下りたところに、クラクフの名の起源になったという、伝説の「竜の洞窟」があります。その昔、ヴィスワ河畔の洞窟にどう猛な竜が住んでいて、娘さんや家畜を襲って村人を困らせていました。
 そこで靴職人のクラクがタールと硫黄をしみ込ませた羊を竜に与えるという、一計を案じました。羊を食べた竜は喉の渇きに絶えられず、ヴィスワ川の水をがぶ飲みして腹が破裂し、絶命しました。竜を退治したクラクを讃えて、村の名をクラクフにしたという、どこにでもありそうな話です。洞窟には竜の像もありますが、私たちは上からちょこっとのぞいてお終いでした。

●国章
 観光名所でよく出会うのが白鷲の国章。鷲がポーランドの象徴になったのは、13世紀にピャスト家が鷲の印を使用して以来のことといわれます。15世紀のヤギエウォ朝時代、戦勝した軍旗のデザインが赤地に王冠の白鷲でした。
 1919年、王冠を載せた白鷲が国章に。しかし、第2次世界大戦後の共産主義時代に鷲の王冠が外されてしまいました。王冠のある元のデザインが戻ったのは、国名を「ポーランド人民共和国」から「ポーランド共和国」に改めた1989年でした。

●ヨット浮かぶ
 クラクフの観光はひとまず切り上げ、世界有数の岩塩坑を見るため、南13kmにあるヴィエリチカへ向かいました。
 15:00、ますます青空が広がって、ヴィスワ川にはヨットが浮かんでいます。アイスクリームを舐めながら歩く娘さんたちも見かけます。スロバキアの国境近くまで南下したので、町も盛夏の装いに変わりつつあるようです。

●ヴィエリチカ岩塩坑
 ヴィエリチカ岩塩坑の採掘は13世紀半ばに本格化。「白い金」ともてはやされ、14世紀以降はポーランド国家財政の3割を支え、大きな利益をもたらしました。
 採掘は現在も続けられており、700年間の採掘によって掘られた坑道は地下330mに達し、総延長はざっと300km。採掘した岩塩の総量は3000万立方㍍に達しているそうです。

●世界遺産
 坑道のうち、2.5kmほどが一般に公開されています。地下には労働者たちが安全を願って造った、礼拝堂や博物館、療養所などの塩の芸術が点在しています。
 岩塩を削って仕上げた「最後の晩餐」のレリーフ、コペルニクスの像などもあり、高い芸術性が評価されて1978年、「
ヴィエリチカ岩塩坑」として、世界文化遺産に登録されました。

●巨大な岩塩層

 見学の前に、少しばかりの予習です。2000万年前に海だったヴィエリチカは、その後の地殻変動で塩の湖に姿を変え、やがて塩水が蒸発して結晶だけが残りました。
 地下に沈殿した結晶は、長い年月をかけて巨大な岩塩層を造りました。ヴィエリチカ・ソル(大いなる塩)が町名の由来といわれます。岩塩層の発見にまつわる伝説がありますが、後に触れることにします。坑内の温度は、年間を通じて14度です。

●エレベーター
 観光客は業務用エレベーターで地下64mまで下り、ガイドに従って地下135mまでの見学コースを2時間ほどかけて見学します。坑道は10層ですが、見学できるのは3層まで。全体のわずか3%です。坑内の撮影料は10zl。
 竪坑を下るエレベーターは、上下に4両連結し、各車両の定員は8人。かん、かんと鳴り響く鐘を合図に、一気に下りました。

●坑内見学
 安全帽をかぶった男性ガイドに案内され、狭くて暗い坑道を進みます。むき出しの岩盤に岩塩を採掘した痕跡が鮮明に浮かんでいます。坑道は太い丸太などでがっちりガードされているので、崩れ落ちる不安はまったくありません。
 コペルニクスの像を見て、ロバを曳く様子を再現したシェレツの部屋、キンガ姫伝説群像があるヤノビツェの部屋、カジミェシ大王の部屋、7人の小人の坑夫が働く部屋などを巡回しました。坑内には3000近くの部屋があり、人造湖もあります。部屋に彫られた像はすべて岩塩で出来ていると、聞かされて驚くばかりです。

●キンガ姫の礼拝堂
 観光の目玉は、地下101mに彫られたキンガ姫の礼拝堂。ヴィエリチカの守り神と崇められるキンガ姫を祀るため、坑夫たちが作業の合間に、こつこつ仕上げました。1896年から彫り始め、完成までに30年以上を要したそうです。
 高さ20mの大きな地下空間には、塩で造ったシャンデリアが目映いばかりに輝き、祭壇には聖母マリヤが光っていました。坑道内でもっとも美しい場所です。

●レリーフ
 礼拝堂の塩の壁に、多くの浮き彫りが描かれています。最後の晩餐、ロバに乗ってエジプトへ避難する聖家族を描いたレリーフ、聖書の物語の場面など、思わず「これが塩?」と言ってしまいそうです。
 いくつもある像の中でもっとも新しいのは、ヨハネ・パウロ2世の像。コペルニクス像は生誕500年を記念して1973年に造られました。礼拝堂では、現在でも日曜ミサや結婚式が行われています。

●キンガ姫伝説
 ヤノビツェの部屋にはキンガ姫伝説の一場面を彫った群像がありました。姫が手を差しのべる仕草は、坑夫が採掘した岩塩を受け取るポーズのように見えます。キンガ姫はハンガリー王の王女。ポーランド王のボレスワフ・フストドリビとの婚約が整い、王のもとへ向かう途中に塩坑を発見しました。
 伝説によると、ポーランドに塩坑がないと聞いたキンガ姫は、泉に婚約指輪を投げ入れ、ヴェリチカの住民に地面を掘るように言いつけました。住民が彫り進むと、岩塩層に突き当たり、指輪も見つかったといいいます。10世紀ごろの伝説だそうです。

●シェレツの部屋
 シェレツの部屋では、35kg入りの樽に詰めた岩塩を、馬が引く様子が再現されていました。坑夫を悩ませたのはメタンガスの発生。爆発の危険があるため、作業員が噴出ガスが微量なうちに燃やして処理しました。その様子も像を使って見せています。
 7人の小人たちは華やかにライトアップされた部屋で仕事に精出したり、サボったり。また湖ではささやかな光りのショーを見せてくれました。

●土産物店も
 ピカピカに光る塩の道、階段を上り下りしながら、地下に制作された塩の芸術を堪能しました。地下25mには土産店や郵便局もあります。
 ミネラル分を含んだ塩には殺菌作用があるので、坑内の空気が浄化されて、気管支喘息やアレルギー疾患に効果があるといわれ、ときどき深呼吸をしました。

●世界遺産第1号
  ところで、ヴィエリチカ岩塩坑とクラクフ歴史地区は、ユネスコの世界遺産登録の第1号、アウシュビッツ強制収容所が第2号です。登録制度は1978年から始まり、初年度は自然遺産4件、文化遺産8件の計12件が同時登録されました。
 ドイツの「アーヘン大聖堂」、アメリカの「イエローストン」などと肩を並べて、堂々の名誉ある第1号になったのです。文化遺産といえば、フランス、イタリア、中国などが宝庫ですが、ポーランドの遺産が登録の先駆けになったことは、あまり知られていません。

●ビーフロール
 夕食は中央市場広場のレストラン「Da Pietro」で。トマトとチーズのサラダ、ビーフロール、チョコレートムースでした。
 味付けした何種類もの具をビーフで巻いたロールはキュウリのピクルス添え。ロール料理はざまざまな種類がありますが、ビーフもなかなかいけました。

●夜も賑わい
 中央広場はまだ賑わっています。画家たちは絵を並べ、野外のレストランも大繁盛。青いスタンドのパン売りおばさんもいます。リングのパンが美味しそうです。露店のパン屋さんは町の各所で見かけました。
 教会通りに建つ聖ペテロパウロ教会などを横目にしながら、ヴァルベル城近くまで歩き、そこからバスでホテルに戻りました。今日は時間に追われながら、よく歩き、よく見聞しました。足が棒のようになり、早めにベッドに潜りました。



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