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◎6月19日(金)雨・晴・雨 (9日目) 
 クラクフ→オシフィエンチム→ビルケナウ→クラクフ泊

●今日の予定

 きょうはアウシュビッツ強制収容所跡を見学します。残酷すぎて見るに堪えられないという人は、クラクフ市内でフリータイム。観光後は市内に戻って自由時間です。
 午後から雨の予報。6:30、雲は多いですが、ところどころに青空が見えます。体調は良く、今朝も食が進みました。

●夏休み
 9:00、全員そろってアウシュビッツへスタート。ドライバーが3人目に代わりました。学校は終業式。花束を手に母親と教会へ行く子供たちの姿がちらちら眺められます。
 明日から長い夏休みですが、不況による保護者負担を考えて、キャンプや旅行の行事を中止する学校が増えており、「つまらない夏休みになる子供も多い」そうです。

●終日点灯
 日中なのに、行き交う車のほとんどがライトをつけて走っています。以前は10月から翌年2月まで昼間点灯でしたが、交通事故の増加により、現在は通年の終日点灯が義務づけられています。ヨーロッパでは、北欧をはじめとして終日点灯の国が多いです。
 渋滞を避けて、田舎道を走ったバスは10:45、アウシュビッツ強制収容所跡に到着。雨が降り出しました。

●強制収容所
 クラクフの西55kmにオシフィエンチムという、人口5万人ほどの小都市があります。ナチス・ドイツが「人類最大の負の遺産」といわれるアウシュビッツ強制収容所を建てた町です。アウシュビッツとは、オシフィエンチムのドイツ語。
 第2次世界大戦の最中、ポーランドを占領したドイツ軍は1941年、反ナチス活動家を収容するための強制収容所をオシフィエンチムに建設。施設は間もなくユダヤ人撲滅の場に変わりました。アウシュビッツが手狭になったため、1942年には3kmほど離れたビルケナウ(ブジェジンカ)に大規模な第2強制収容所を建て、世界を震撼させた世にも怖ろしい虐殺が繰り返されたのです。

●世界遺産
 2つの収容所では、ポーランドとその周辺国から連行された多くのユダヤ人らがガス室に送られたり、絞首刑にされたり、餓死させられたり、地獄の苦しみの中で死にました。証拠が隠滅されたので、その数は定かではありませんが、150万人とも、300万人、400万人ともいわれています。
 戦後はドイツに代わってソ連が侵攻。1945年1月に収容所は解放され、2年後から平和を願う国立オシフィエンチム博物館として保存、公開されています。「人類が犯した狂気の悲劇、2度と起こしてはならない負の遺産」として1979年、世界文化遺産に登録されました。

●ユダヤ人撲滅 
 ナチス・ドイツの党首ヒトラーは、ドイツの経済破綻の原因は金融や商業で利益をむさぼるユダヤ人のためなどの考えに固執し、ユダヤ人排除の政策を進めました。
 当初はドイツ国内から追放していました。しかし、300万人以上のユダヤ人が住むポーランドを占領してから、政策は追放から虐殺へと転換し、殺戮が繰り返されることになりました。

●赤煉瓦の建物
 大雑把な予習をしたところで、いよいよ強制収容所の見学です。案内してくれるのは、博物館公認ガイドの中谷剛さん。アウシュビッツに関して、知らないことはないというエキスパートです。
 小雨の中、傘を差しながらの見学になりました。広い敷地に赤煉瓦の収容棟が並び、周囲に有刺鉄線が張り巡らされています。「殺戮の場」のイメージが頭にこびりついているので、整然と並んだ収容棟を見ただけで、体が硬直してしまいそうです。

●皮肉な標語
 「あれを見て下さい」。中谷さんが門の上を見上げました。門の上に「ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になれる)」と書かれた鉄製の標語が残されています。
 ドイツ軍が囚人(ユダヤ人)に造らせたものですが、よく見ると、Bの文字がいびつです。ナチスに対するささやかな抵抗だったのでは、といわれています。連行されてきたユダヤ人は、門を入った途端、死の運命が待っていたのです。なんとも皮肉な標語です。

●有刺鉄線の柵
 アウシュビッツ強制収容所の敷地は約6㌶。その中に収容棟、絞首台、ガス室、焼却場、死の壁などが保存され、強制労働や殺戮の様子を伝えています。
 収容所は有刺鉄線を張り巡らした二重の柵に囲まれています。高さ4mの柵には当時、6000ボルトの高圧電流が流れていたそうです。収容所の正門を入ったら最後、生きては帰ることができない運命が待っていました。

●死か、強制労働か
 「収容された人より、ガス室に送られて殺された人がはるかに多いことを知って欲しい」。中谷さんは力説しました。
 家畜を運ぶ貨物列車にすし詰めになって連行されたユダヤ人は、まず親衛隊員によって選別されます。老人や妊婦、幼児、病人ら労働力にならない人は、すぐさまガス室送りに。子供は身長によって死か、強制労働組かに分別されたといいます。70%はガス室送りになったそうです。

●ガス室と焼却場
 敷地の一角にガス室と死体の焼却場がありました。見せかけのシャワー室は、毒ガスの「チクロンB」が噴射されるガス室でした。「長旅で疲れただろうから、シャワーでも浴びなさい」との甘言に、ホッとして部屋に入った途端、ガスが噴射されて死んでいきました。
 すぐ横には3つの焼却炉があり、ガス室で殺された人たちが焼かれ、灰は肥料に使われました。1日に1000人以上も焼却されたということです。焼却作業は同じユダヤの囚人が行ったと聞かされて、胸が張り裂けそうでした。

●絞首台
 ガス室の近くに絞首台がありました。ここでも多くの人が殺されましたが、第2次大戦後の1947年4月、かつて収容所の所長として、虐殺を指揮したルドルフ・ヘスがここで絞首されました。近くには彼が住んでいた2階建ての家が残っています。
 収容所の点呼広場には、集団絞首台も設けられています。レールで造った長い鉄棒のような道具で、逃亡を図ったり、反攻した者を集め、みんなの前で見せしめに殺しました。そばにむごい写真が展示されています。

●写真撮影は禁止
 収容棟の中に入りました。中谷さんから「内部の写真撮影は禁止です」との注意を受け、いくつかの棟を見せてもらいました。
 横縞の囚人服を着せられた男女の写真が並んでいます。どちらも丸坊主。収容所送りになった強制労働組の人たちです。彼ら、彼女らは腕や太股に登録番号の入れ墨をされ、1日に12時間以上の労働を強いられました。34426の入れ墨をされていたのは16歳の少女。食料も十分に与えられず、寝床は藁を敷いた蚕棚のよう。いずれは死ぬ運命にありました。

●毛髪の織布
 ガラスケースの中に、切り取られた頭髪が山積みされています。坊主頭にされた女性の髪の毛は、混紡してカーペットや、靴下などに加工されたとのこと。製品が展示されていて、そのあくどさに身震いしました。 
 髪の毛は袋詰めにしてドイツに送り、羊毛などと混紡したそうです。また、焼却された死体が残した金歯や指輪などは延べ棒にされたとも。毛髪には三つ編みもあって泣かされました。

●チクロンB
 ガス室で使った「チクロンB」の空き缶も展示されています。噴射されると10分か15分で死んだそうです。言葉巧みにガス送りにした親衛隊員は同じユダヤ人でした。
 チクロンBは1942年から1943年の間に2万kgが使われたとか。ヘス元所長は戦後の裁判で50人を殺すのに6kgから7kg必要だったと証言しています。

●鞄や靴
 他にも連行されてきた人たちが持参した鞄や靴、メガネ、義手、義足なども展示されていました。鞄には所有者の名前、住所が書かれています。いつかは故国に帰る日が来ると信じていたのでしょうか。
 山積みされた8万足の靴の中には幼児のものもあり、囚人が履かされた木靴や人形もあります。また、死体の野焼き風景の写真などが展示され、恐怖と涙を誘いますが、作業に当たっていたのは、やはり囚人たちです。

●人体実験も
 私たちは見ませんでしたが、人体実験室や餓死室、立ち牢などもあるそうです。幼児にチフス菌を植え付けて反応を見たり、断種手術の実験などが行われ、ここでも多くの人が犠牲になりました。立ち牢はわずか1m四方。その中で4人の大人が長時間立ち続ける拷問を受けました。
 残虐の限りを尽くした人間の業。いたたまれない気持ちで戸外に出ました。

●死の壁
 最後に見たのは、20万人以上が裸にされ、銃殺されたという煉瓦づくりの「死の壁」。雨に濡れた献花が哀れでした。
 収容所内は、むごたらしいの一言ですが、人間が残した紛れもない史実です。目を背けるわけにはいきません。収容棟は地下室と屋根裏部屋がある煉瓦づくり。3列に28棟が建ち、多いときには3万人が詰め込まれたそうです。

●ビルケナウ収容所
 バスで少し移動して、ビルケナウ収容所へ。アウシュビッツ同様にホロコースト(大量虐殺)の舞台です。アウシュビッツより広い敷地に300棟以上の建物がありました。現在はその一部が残されているだけです。
 草原の中に崩れ落ちた建物がたくさんあります。残された煙突は墓標のようです。ビルケナウ収容所もまた電流を通した有刺鉄線で囲まれていました。

●蚕棚の寝床
 収容棟の蚕棚の寝床、洗面所などを見学。ここは写真撮影OKでした。木造の監視塔が建ち、鉄路が延びています。監視塔は復元されたもの。
 団体客に混じって、家族連れの見学が目立ちます。夏休みに入ったからでしょうか。大勢が有刺鉄線越しに収容棟を眺めていました。

●死の門
 鉄道の引き込み線が延びる「死の門」が寒々と建っています。ポーランド国内はもとより、ヨーロッパ各地から列車で運ばれてきたユダヤ人を待ち構えるのは、収容所入り口に建つ赤煉瓦の門でした。
 列車が門を潜ったその時から全員が囚人となり、行き先は死の道があるのみでした。映画「シンドラーのリスト」でも、ユダヤ人女性たちが列車に乗って、この門を入るシーンが撮影されました。

●監視塔から
 門は3層。最上階はガラス張りの監視所になっています。「上がれますよ」という、中谷さんに案内されて、階段を上がりました。女子の収容棟が並び、その奥に赤煉瓦の"墓標"が林立しています。
 有刺鉄線の外側にも監視塔がずらり。冷たく延びる鉄路。その横に花束が添えられていました。隔離された人々は、厳しい監視の目に曝されながら辛い日々を過ごしたのです。死ぬも地獄、生きるも地獄とは、このことを言うのでしょう。

●アンネ・フランク
 収容所に連行され、殺戮されたのはユダヤ人ばかりではありません。ポーランド人やロマ(ジプシー)、ロシア人もいます。
 その中にはナチス・ドイツの迫害を綴った「アンネの日記」の作者、アンネ・フランクもいます。彼女はオランダからビルケナウ収容所に運ばれて2年間過ごしました。その後、ドイツのベルゲンベルゼン強制収容所に移送され、チフスのため15年の短い生涯を閉じました。

●証拠写真
 アウシュビッツ、ビルケナウには死体の焼却風景、ユダヤ人の連行風景など、当時の様子を知る写真が展示されていました。写真はドイツ軍の将校が趣味で撮ったもの。
 敗色濃厚になって収容所から逃げ出すとき、写真を置き忘れ、後に発見されたそうです。多くの証拠が隠滅されたので、写真は残虐さを知る貴重な資料となって、後世に伝えられています。

●生者の行進
 ポーランドでは毎年、「生者の行進」が行われ、アウシュビッツからビルケナウ収容所まで約3kmを徒歩行進します。1988年に始まり、現在は毎年、イスラエルのホロコースト記念日に合わせて実施しています。
 歳月を経て、ナチスによるユダヤ人虐殺はなかったと主張する人々も現れたため、悲劇を忘れまいと行進が始まりました。当初の参加者はユダヤ人ばかりでしたが、近年は多民族も加わるようになり、2万人前後が歩くそうです。今年は4月25日に行われました。

●生きることが反抗
 収容所の見学は終わりました。「人類最大の負の遺産」は、ずしりと胸にこたえました。ドイツ軍に協力した囚人は戦後、「生きることがナチスに対する最大の反抗だった」と、心の内を吐露したそうです。
 長文の見聞記になりましたが、見学の機会に恵まれて良かったと思います。遠ざかる収容棟を眺めながらクラクフへ引き揚げました。

●自前の昼食
 帰路、また雨が降りだし、13:40に到着したときは本降りに。昼食は自前です。アリーツィアさんとS・Dさんが希望者をレストランに案内してくれました。2班に分かれ、私たち10人はアリーツィアさんに同行。
 案内されたのは、旧市街の老舗らしいレストラン。4人と6人のテーブルで、アリーツィアさんは盛り合わせの料理を注文しました。

●豪快料理
 パン、野菜サラダに次いで運ばれた料理にびっくりです。鉄製の平鍋に肉、魚、野菜、ピエロギなどが大盛りにされ、真ん中にナイフが2本突き刺さっていました。パンは田舎風。ラードでつくったバターのようなものをつけて食べました。
 豪快なメイン料理はどれも美味しいのですが、ボリュームがありすぎて、4人が食べても食べても減りません。半分ほど残してしまいました。アリーツィアさんには「これでも3人前ですよ」と笑われました。

●トラム初乗り
 昼食後はフリータイム。あれもこれも見たいと計画していたのですが、本降りの雨では動きがとれません。中央広場の織物会館で雨宿り。館内に並ぶ土産物店をのぞいて時間をつぶしました。
 15:30、中央郵便局の前からトラム19番線に乗って、ホテルに戻りました。停留所に自動発券機があり、料金は距離に関係なく1人2.5zl。乗車したら乗車日を刻印するシステムです。

●ゴヴォンブキ
 旧市街のレストラン「Mieszczanska」で夕食。メニューは茸のスープ、ゴヴォンブキ、アイスクリーム。スープはパンの容器に入っていました。ロシアでも食べたことがあります。
 「ロールキャベツみたい」という、女性の声が発せられたのはゴヴォンブキです。味つけした挽き肉や玉ねぎ、ライスなどを下茹でしたキャベツに包み、トマト味のスープでことこと煮込んだ家庭料理です。

●民族舞踊ショー
 食事は民族舞踊ショーを見ながらいただきました。民族衣装の舞踊団がアコーデオン、ベース、歌声に合わせて切れ味の良い踊りを披露。最後は一行の男女も仲間入りして踊ったり、ゲームをして楽しみました。
 愉快なショーを見ているうちに、アウシュビッツを見た後、ずっと胸につかえていた重しが少しばかり軽くなりました。ショーの後は、例によって団員のCD販売。妻も1枚買いました。

●ライトアップ
 21:00すぎ、ホテルに戻るころにはヴァヴェル城や聖ベルナルド教会がささやかにライトアップされていました。車窓からシャッターを押してホテルに帰還。
 織物会館で観光中の日本人夫婦に会いました。トルンでビジネスマンに会いましたが、観光客はこの日が初めてです。昨年は日本からの観光客が多かったのですが、今年は新型インフルエンザ、経済不況などの影響で半減したそうです。
   


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