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◎9月3日(日)晴 (11日目)
 (サンクト・ペテルブルグ滞在)

●観光最終日
 観光最終日を元気に迎えられました。無事に乗り切れている体力に自ら感動しています。
 きょうはエカテリーナ宮殿とピョートル宮殿の観光。終わりよければすべて良し、ということもあります。晴天を願って天空を仰ぎました。東の空が赤くなって、気温はプラス16度。いまのところは願い通りです。

●早めに出発
 慌ただしく朝食をすませ、7:50、エカテリーナ宮殿へと向かいました。昨夜の帰路で大型クルーズ船が数隻停泊していたので、「明日は混雑しそうだ」と早めの出発になりました。
 バス待ちの市民にコート姿が目立ちます。8:40、大きなベッドタウンのプーシキン市にある宮殿に着きました。プーシキン市は、かつてはツァールスコエ・セロー(皇帝の村)といわれたところです。

●歓迎バンド
 バスを降りたら「さくら」の演奏が聞こえてきました。チップ目当ての歓迎バンド。きれいな庭、ブルーの建物を横目に進んで宮殿へ。きんきらきんに光る門扉の前でも歓迎バンドの演奏が響いていました。
 ボックスにチップを入れる度に、軍服姿のおじさんたちが日本語のメロディーを演奏してくれます。気前が良い日本人。一行の大半がチップを進呈しました。

●トップ入場
 9:00、開門と同時にトップ入場。ユーリーさんが見学の前にまずトイレをと促します。その間に後続の欧米人団体に先を越されてしまいました。 
 ロシアの博物館などでは、日本人観光客を「お手洗いさんが来た」とか「トイレ車が来た」と揶揄するそうです。用心深い日本人は「まずトイレ」です。それは確かですが、なんたる侮辱!。

●エカテリーナ宮殿
 エカテリーナ宮殿は聞きしにまさる優美な宮殿です。ブルーの壁と白い柱が連続するファサード(外観)が横長に延びています。
 600万平方mの庭園に囲まれて建つ宮殿はバロック様式。ファサードの全長は325mもあり、その上には礼拝堂の金色ドームが輝いています。いや輝いているはずでした。しかし、残念ながら工事用のベールにすっぽり覆われていました。
 内部は55の続き部屋(アンフィラード)があって、柱の色から命名された「赤柱の間」や「緑柱の間」、金箔で内装された「王冠の間」などの部屋が並んでいます。

●母の名前
 宮殿が完成したのは1756年ですが、もともとはピョートル大帝が皇妃エカテリーナのために建てたものです。それを娘の女帝エリザヴェータ1世がイタリアの建築家ラストレリに命じて改築しました。そして、母の名前エカテリーナを宮殿名にしたのです。
 歴代皇帝の夏の宮殿として使われましたが、この宮殿の生活をもっとも気に入っていたのは、ピョートル大帝の死から37年後に即位した女帝エカテリーナ2世でした。

●ドイツ軍が破壊
 宮殿は第2次世界大戦でドイツ軍に破壊され、装飾の金箔や琥珀のすべてが略奪されました。戦後、国家的な事業として、急ピッチの修復工事が行われ、現在の姿に蘇ったのです。
 ここは井上靖の小説「おろしや国酔夢譚」などで知られる大黒屋光太夫がエカテリーナ2世に謁見した場所でもあります。

●靴カバー
 入場者は全員、備え付けのビニールの靴カバーをしなければなりません。木の床の損傷を防止するためです。新品のカバーなので抵抗はありません。
 撮影は無料の撮り放題。おおらかさに感激して、いざ観光です。入場してすぐに立派な階段があります。儀式の階段でした。

●大玉座の間
 先行のグループが説明を終わるまで少し待たされました。階段は赤絨毯が敷かれ、白壁には時計や古伊万里の装飾。天井にはフレスコ画が描かれていました。
 2階に上がって大玉座の間へ。部屋を取り巻く黄金と鏡と蝋燭の壁、ぴかぴかに磨きあげらた床が壁の金色を投影して怪しげに光っています。これ見よがしの金ぴか。これだけで圧倒され、「う〜ん」と唸ってしまいました。

●各部屋巡り
 800平方mの天井いっぱいにフレスコ画が描かれています。部屋を照らす蝋燭は7000本。オランダから取り寄せたペチカのタイルは細密な模様入り。立派な芸術品です。
 切れ目なく続く観光客に急かされるように、長さ47m、幅17mの大広間(舞踏の間)、赤柱の間、緑柱の間、ダイニングルームなど各部屋を回りました。 

●目がくらむ
 各部屋を繋ぐ装飾もまた煌びやか。部屋を飾る黄金の椅子、時計の数々、調度品にも目がくらみそう。興味のあるところでは、つい足が止まります。でも、日曜日と重なって押すな押すなの大盛況。1か所に留まることは許されません。
 部屋の窓からは中庭が望めます。金ぴかを見続けて疲れた目を休めるには最適です。 

●琥珀の間
 期待の琥珀の間にやってきました。エカテリーナ宮殿の数ある部屋の中で最大の注目です。部屋は55平方m。その壁一面が琥珀に彩られています。ドイツからピヨートル大帝に贈られた琥珀のパネルをもとに、1770年に造られたといいます。
 「奇跡」といわれる世界にも希な装飾をカメラに収めることはできません。「フラッシュの光が琥珀に悪影響を及ぼす」との理由で、撮影が禁止されたそうです。
 でも、入口の隙間から撮すのならOKなようで、監視のおばちゃんは何も言いませんでした。

●琥珀6.5d
 部屋はテレビで見たより狭く感じられました。しかし、琥珀が壁を覆い尽くす様は、やはり奇跡です。内装に使われた琥珀の総重量は6.5d、パネルは10万個にも及びます。工事はエリザヴェータ1世からエカテリーナ2世へと引き継がれて完成しました。
 琥珀は植物の樹脂が5000年から1万年もかけて化石化したものです。「琥珀の間」には琥珀のチェス、煙草入れなどもありました。 

●戦災から復興
 琥珀の間は第2次世界大戦中の1941年、エカテリーナ宮殿を占拠したナチス・ドイツ軍によって解体され、内装の琥珀もすっかり持ち去られました。
 琥珀は行方知らずのままでしたが、1979年に国家事業として復元に着手されました。当初は90年がかりの修復計画でしたが、わずか22年で完成。2003年5月、建都300年を前に以前の姿が蘇りました。復元にはドイツからも多大な支援があったそうです。

●無惨な宮殿
 宮殿の廊下にナチス・ドイツ軍の空爆で破壊された、無惨な宮殿の写真や復旧に携わった人々の苦労を偲ぶパネルが展示されていました。
 戦争の愚、復旧の労。よくこれだけ蘇ったものと、感慨深く眺めました。

●図録好き
 売店では日本語の図録があり、一行の何人かが買い求めました。それを見ていたユーリーさんは「琥珀の間やモスクワの武器庫の写真撮影を禁止したのは、図録を買わせるため」だといいます。
 日本人は図録好きで有名なのだそうです。売店にロシア語、英語の図録もありましたが、あれだけ多く訪れる中国語版は見あたりませんでした。ユーリーさんの見方が正解なのかも…。 

●フランス庭
 裏口から戸外に出ると、青空が広がっていました。宮殿のファサードがさらに鮮やかになっていました。彫像が並ぶフランス庭も茶色い煉瓦と芝生のコントラストが見事でした。
 ファサードを背景に全員が集合写真におさまり、階段を下りてエカテリーナ宮殿庭園の散策をスタートしました。

●エカテリーナ宮殿庭園
 広大な庭園です。大池を中心に様々な建物があります。エカテリーナ2世が宮殿を眺めたというキャメロンギャラリー、ライオン像がある中国風の東屋、、娘と牛乳壺という名の泉、大理石の橋、トルコ風呂など、などです。
 大池の水面にはそれらの建物が投影されて一幅の絵画を見るようです。宮殿のブルーと白も鮮やかに投影されていました。

●娘と壺の泉
 青空にヘラクレスの立像が威厳を示し、周辺の空間は花園です。池には水鳥が浮かんでいます。ここまで足をのばす観光客は少ないのか、ゆったり気分で池畔を歩けます。
 額に汗がにじみ、水分がほしくなった頃、大石の上に座った少女の足下にある壺から水が流れ出しています。これは娘と壺の泉のようです。入れ替わり立ち替わりして口を潤しました。

●大理石橋
 大池をほぼ1周して散策も大詰め。ピンクのトルコ風呂は修理中でした。池の中に記念塔らしきものが建ち、大理石橋がきれいな陰を水面に落としています。
 池畔のベンチでひと休みしていたら、ボートが1艘、すーっと水面を滑って行きました。静かで、のんびり。穏やかな時間が過ごせました。

●豊かな声量
 12:00、池畔に建つ要塞のようなレストラン「アドミラティスヴォ」で昼食。キャベツのサラダ、ボルシチ、チキンなど。サラダはピクルスのような酸味があって美味でした。
 食事中に欧米の団体さんが加わって賑やかに。ミニのフォークロアショーが始まりました。女性2人は見慣れぬ楽器を手にしています。男性の声量にはびっくり。腹の底から歌い上げるロシア民謡に聴き惚れました。

●夏の離宮へ
 13:30、英気を養った一行は、南西30kmのペトロドヴォレツ(ペルテゴフ)に建つピョートル大帝の夏の離宮へと向かいました。
 延々と続く緑の塀は埋葬地です。墓参の家族目当ての花屋さんがずらり。塀を張り巡らしているのは、政府があまり見せたくなかったため、という話です。

●リムジン
 ゴシック風なきれいな教会が建つ公園で休憩。花いっぱいの公園には日曜日の午後を楽しむ家族連れが見られました。
 また、教会のそばには、花を飾ったロングサイズのリムジンがでんと停車していました。金持ちの新婚さんがどこかで記念写真を撮っているのでしょう。

●お祭りのよう
 ピョートル宮殿はお祭りのような賑わいでした。宮殿前の展望台は人で埋まっています。眼下の大庭園では黄金の彫像が青空に向かって水柱を噴き上げ、大勢の観光客が花の庭園をそぞろ歩いていました。
 宮殿の観光客が少ないというので、さきに内部を見学することになりました。やはり木の床を痛めないようにビニールのカバーを履きました。こちらは使い古し。ちょっと気持ちが悪かったです。内部の撮影には100ルーブルが必要です。

●ピョートル宮殿
 ピョートル宮殿はスウェーデンとの北方戦争に勝利した大帝が、その記念にと建設を命じて1721年に完成させました。
 パリを訪問した大帝がルイ14世のヴェルサイユ宮殿の素晴らしさに触発され、「北のヴェルサイユ」をめざし、自ら先頭に立って造営に取り組んだのは1714年でした。
 設計はイタリアの建築家ルブロンが担当。7年後には広大な庭園を配し、その中にバロック様式の2階建て大宮殿という、壮大な構想を実現させたのです。

●現在の姿
  北のヴェルサイユは建築家ラストレリによってさらに手が加えられ、1755年に現在の姿になりました。ピョートル宮殿は夏の離宮です。
 2階建てが3階建てに増築され、庭園もさらに充実しました。ファサード(外観)の全長300mの大宮殿、それを取り巻く上の公園、下の公園には金色に輝く260体の彫像、150の噴水、4つの滝、そして3つの小宮殿が配置され、パリのヴェルサイユと並び称される宮殿が誕生したのです。
 大宮殿は第2次世界大戦でナチス・ドイツ軍の攻撃で甚大な被害を受けましたが、国家的事業として、50年後の1995年に復元されました。

●大宮殿の階段
 大宮殿はフィンランド湾を見下ろ高台に建っています。ファサードは黄と白の配色。内部には2層窓の部屋、絵の間、東洋の間、礼式の間、青の間、通り抜けの間、ピョートル1世の部屋、柱の間など、趣向を凝らした装飾の部屋が数多くあります。
 一行は大宮殿の主階段から2階へ。バロック様式の階段は金ぴかの装飾が光り、天井には曙の女神アウローラが描かれていました。

●宮殿内見学
 長く連なる各部屋は金箔がふんだん施されて、エカテリーナ宮殿同様にこてこての装飾です。玉座の間には馬上姿も颯爽としたエカテリーナ2世が描かれていました。若い女性ばかりが並んだ肖像画の部屋、中国風書斎の間、食道、寝室などを、またまた駆け足で巡回。
 いくつかの部屋にライティングデスクがありました。ピョートル大帝がアイディアが浮かんだときにすぐにメモできるように、という配慮だったといいます。

●木製地球儀
 部屋の装飾ばかりに目をとらわれがちですが、調度品や食器などもイギリスやオランダから取り寄せた値打ちものばかり。
 大帝の部屋には珍しい木製の地球儀があり、他の部屋にも見事な装飾のハープや陶器の人形をあしらった蝋燭立て…。美の粋が集約されていました。

●眼下に噴水
 大宮殿を出ると、内部見学の入場を待つ長い列ができていました。日本人のグループもいます。周辺の展望台はさらに人が増えました。
 多くの人が展望台の手摺りにもたれて噴水を見下ろしています。目線の先にはフィンランド湾が望めます。宮廷衣装のモデルも忙しそう。 

●大庭園
  自分たちもこれから庭園を見学します。宮殿と庭園を合わせた面積はざっと800万平方m。庭園は大宮殿を挟んで上の公園と下の公園に分かれています。
 フィンランド湾を見下ろすテラス状の地形を利用した公園は、金色の彫像に彩られ、彫像自体から、またその周辺から絶え間なく水を噴き上げています。
 上下の公園を合わせた噴水の数は150とも170ともいわれ、大滝、ライオンの滝なども配置されて「水の都」を創り出しています。

●下の公園
 展望台を降りて下の公園から観光開始。大宮殿の正面テラス前には左右に7段の階段が設けられ、そこから大滝が流れ落ちています。階段の縁に並ぶ黄金彫像。その周辺から噴き上げる水柱。日本古来の水芸を見ているようです。
 高々と噴き上げる水柱、四方に飛沫を散らしてほとばしる噴水、優雅に宙を舞う細い水柱…。見事な演出には、ただただ見惚れるばかりです。

●サムソン像
  流れ落ちた水はテラス下の大池からフィンランド湾に注いでいます。大池の中央に金色のライオンの口を裂こうとする怪力サムソンがいました。サムソン像は高さ3mあまり。ライオンは口から高さ20mもの水を噴き上げて抵抗していました。
 サムソンは旧約聖書に登場する英雄。スウェーデンとの戦いに勝利した日が「聖サムソニア」の祝日だったので、大帝ピョートル1世は特別な感慨を込めて造らせたといいます。公園最大の噴水はまさに栄光の象徴です。
 大池は1082年に造営され、後に修復されました。64の噴水と37の金箔彫像が見る者を感激させます。

●彫像
 噴水とともに庭園を彩る金色の彫像は260体を数えます。古代ギリシャやローマ、神話に登場する神々が燦然と輝いて観光客を迎えてくれます。
 サムソン像をはじめ、ジュピターやネプチューン、ニンフなど馴染みの神々たちです。また、下の公園にはピョートル1世の彫像もあります。

●噴水いろいろ
 「水の都」を演出する噴水は他にもピラミッド、ローマ、太陽、いたずら、イヴ、アダム、チェスの山などの名をつけられて、水を噴き上げています。どの噴水も趣向を凝らしたものばかりです。しかし、時間がありません。先を急ぎます。
 広大な庭園に観光客は分散して、思いのほか少ない人です。アダムの彫像を細い水柱が取り巻くアダムの噴水を見てから、いたずらの噴水へ。

●いたずらの噴水
 いたずらの噴水は林の中に人工の樹木が1本立っていました。枝のあちこちから不規則に水が飛び出す趣向で、子供たちはその下を行き来しながら突如、飛び出す水を浴びて大はしゃぎ。
 通路のベンチにも仕掛けが。近寄りすぎると水鉄砲のように勢いよく数本の水柱が噴射されます。「キャーッ」。一行の数人が被害にあってびしょ濡れになりました。

●上の公園
 きれいな花々に飾られた庭に噴き上げているのは古代ローマの噴水。向かい合うようにチェスの滝が流れています。かなり歩きました。疲れた足で坂道を上って、宮殿の付属教会から上の公園へ。
 菩提樹の並木を抜け、ネプチューンの噴水や樫の噴水を見て夏の離宮の観光は終了しました。ところで、庭園を演出する噴水の水は、裏手にあるバービゴーンの丘の水源から自然の傾斜を利用して供給されています。配水管は全長20kmにも及ぶそうです。
  
●小宮殿
 自分たちは見ませんでしたが、下の庭園には3つの小宮殿があります。宮殿の増改築を手がけたラストレリが配置しましたものです。
 モン・プレジール、エルミタージュ、マルリー宮で、現在はいずれも博物館として使われています。

●エカテリーナ2世
 観光は終わりました。これまでに何度も登場してきたエカテリーナ2世とは一体、どんな人物だったのでしょう。
 彼女はドイツの小さな公家の娘に生まれ、1745年に女帝エリザヴェータ1世の甥で後のピョートル3世(当時は皇太子)と結婚しました。
 ロマノフ朝の第8代ロシア皇帝(女帝)に即位したのは1762年7月。エリザヴェータ1世の後を継いで皇帝になった夫のピョートル3世を、支持者の貴族層や愛人の1人だったグリゴリー・オルローフら近衛仕官たちと追い落としての即位でした。「無血の宮廷革命」といわれています。

●啓蒙君主
 女帝の地位についたエカテリーナ2世は、ピョートル大帝が夢見た「ヨーロッパの窓」づくりに精を出しました。ロシア帝国の領土をポーランドやウクライナにまで拡大。専制支配体制を確実なものとして、ロシアをヨーロッパの強国の1つに押し上げました。
 当時、ヨーロッパで流行していた啓蒙思想の崇拝者で、教育や社会制度の改革に取り組んだりもしました。しかし、後年は保守反動的になり、革命分子を弾圧することもあったといいます。

●2人の大帝
 エカテリーナ2世は積極的な外交政策を推進する傍ら、ボリショイ劇場やエルミタージュ宮殿(現在の美術館エルミタージュ美術館)の建設にも意欲を見せました。
 派手好みの彼女には生涯で12人の愛人がいたといわれます。ロシアの有名な映画「戦艦ポチョムキン」のモデルになったクリミア総督ポチョムキンもその1人でした。
 エカテリーナ2世は歴代皇帝の中でも政治、経済、文化のあらゆる面で実績が評価されており、ピョートル1世と並んで、ロシアで2人だけの「大帝」の尊称を与えられています。
 私は知りませんでしたが、漫画家の池田理代子さんがエカテリーナ2世の伝記を劇画化しているそうです。

●ピョートル1世
 ピョートル1世についてはすでに触れましたが、おさらいの意味で再度登場してもらいましょう。いわずと知れたロマノフ朝の5代目の皇帝(在位1682-1725年)です。
 初代ロシア皇帝のアレクセイ・ミハイロヴィッチの息子で、1682年に異母兄のイワン5世とともにロシア皇帝に即位しました。当初は異母姉のソフィア・アレクセーエブナが摂政をしていましたが、次第に支持者を増やして宮廷からソフィア派を追放、同時にイワン5世を廃位させて単独統治を果たしました。

●数々の実績
 ピョートル1世は強国ロシア実現へ向けて数々の実績を残しました。その中でも特筆されるものとしては、ロシア海軍の創設(1696年)、西欧への大使節団派遣(1700年)、サンクト・ペテルブルク遷都(1703年)、北方戦争の勝利(1718年)などです。
 海軍の創設によって、オスマン帝国からアゾフ海の制海権を奪って黒海への出口を確保できました。

●2mの巨漢
 ピョートル1世は身長が2m以上もある巨漢でした。造船所でハンマーを振るったり、ピヨートル宮殿の建設では5000人もの労働者を指揮したり、その行いは歴代皇帝の中でもエカテリーナ女帝とともに群を抜く存在感を示しました。
 実績と偉丈夫な体躯から大帝と呼ばれ、「ロシア史はすべてピョー トルの改革に帰着し、そしてここから流れ出す」とまでいわれましたが、1725年に厳冬の海に入って肺炎にかかり死去しました。

●ネフスキー大通り
 17:00、サンクト・ペテルブルクへ戻りました。芸術広場にバスを止めて、しばらくネフスキー通りぶらつきました。通りは旧海軍省からアレクサンドル・ネフスキー大修道院へと延びる4.5kmのメイン通りです。
 19世紀半ばの面影をそのまま残しており、小説の舞台にもしばしば登場しています。ゴーゴリーがその名もずばりの作品「ネフスキー大通り」を書き、ドストエフスキーの小説の舞台にもなりました。トルストイの「アンナ・カレーニナ」の主人公が馬車で疾走したのもこの通りです。

●カザン聖堂
 周辺には見どころがいっぱい。日曜日の夕刻、青空が広がる好天。そぞろ歩く人もいっぱいです。人混みの中を進むと、何度か車窓観光したカザン聖堂が逆光を浴びていました。
 聖堂は1811年の建造です。エカテリーナ2世の息子、バーヴェル1世の命でロシアの建築家がローマのサンピエトロ大聖堂をヒントにして建てたといわれます。コリント式の円柱94本が支える湾曲の建物で、ブルーのドームが乗っていました。
 1812年の対ナポレオン戦争に勝利してからは戦勝記念のモニュメントに。ここも旧ソ連時代には閉鎖されていました。

●サンクトの表情
 地元の芸術家が作品を並べたアートの一角がありました。2人の画家が娘さん1人をモデルにして似顔絵を描いていましたが、別人のような違いでした。
 おもしろい自転車タクシーが客待ちしたり、カフェでくつろぐ人々。車窓から伺えないサンクト・ペテルブルクの表情に接することができました。

●へそ出しルック
 ロシアでも娘さんたちのへそ出しルックが大流行。可愛いおへそがあれば、肥満の腹にのっかったおへそも見かけます。スカートをぐっと下げて、これ見よがしに歩いている女性も。いまにもずり落ちそう。過激です。過激すぎます。
 でも、日本女性の長髪を顔の両側に垂らす、だれもかれもが同じスタイルは見あたりません。もちろん長髪もいますが、すかっとしたショートヘアーもいます。それぞれに個性がありました。

●血の教会も
 道を外れて運河に出てみました。血の教会がきょうも艶やかな姿を見せ、その下をスリッパ(遊覧船)が行き交っていました。
 集合時間が迫ってきました。自分は添乗員のSさんと行動を共にしていましたので、遅れては大変です。公園を大急ぎで歩いて間一髪セーフ。バスは最後の晩餐へと向かいました。

●貴族の館
 夕食は元貴族の館を改造したレストラン「ラストパレス」で。立派な大理石の柱が支える室内は装飾も見事。旅行会社の日程表には「ロマノフ王朝の宮廷料理を再現したメニューをお楽しみ下さい」とありました。
 期待をこめた料理はシーサラダ、肉などの具を入れたクレープ、鮭のムニエルなど。「ピョートル大帝のクレープです」と紹介されても、ふ〜んという程度。あまり代わり映えがしません。
 宮殿の、あの豪華な食卓で食べた料理がこの程度だったとは…。食前酒のウオッカをもてあましていた人たちも、飲み放題のワインは美味しいとの評判でした。 


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