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◎8月25日(金) 晴・曇・雨 (2日目)
 (モスクワ市内観光→モスクワ泊)

●時差ぼけ
 疲れているはずなのに何度も目が開き、3:00にはすっかり目覚めてしまいました。完全な時差ぼけ。毎度のことなので徐々に解消するでしょう。
 夜中に教会がライトアップされ、あちこちで煌めいていました。町外れなのに、通りのライトが明け方まで煌々と輝いて不夜城さながらの光景でした。

●モスクワ
 きょうは世界遺産のクレムリンと赤い広場を中心に観光します。様々な歴史を刻んだ舞台です。晴天を願うばかり。4:30現在、雨は落ちていません。
 その前にモスクワについてさわりを―。
 いわずと知れたロシア連邦の首都。モスクワ州の州都も兼ねる国内最大の都市です。約880平方kmに約1100万人が住んでいます。
 町は1147年にキエフ公国のユーリー・ドルゴーキー公がモスクワ河畔に砦を築き、それを契機にモスクワ大公国が興りました。これがロシア帝国の礎になったといわれます。経済、政治、文化の中心であり、「ロシアの聖なる母」と呼ばれました。

●首座守る
 モスクワは1713年、ピョートル大帝のサンクトペテルブルグ遷都によって首都の座を譲りました。しかし、1922年にソビエト連邦の首都として蘇り、ソ連邦崩壊後もその首座を守り続けています。
 冷戦時代にはアメリカのホワイトハウスに対する一方の雄として、その存在を世界に知らしめたクレムリン。その中にはロシア政府がおかれ、近くには赤の広場があります。
 長い歴史を紡いだモスクワ。市内には歴史的建造物や博物館、美術館などの文化施設が多く、見どころの多い町です。市内にはメトロ(地下鉄)の路線が大小合わせて11あります。

●首都の夜明け
 5:30、やや白んできた上空に星が1つ瞬いています。やがてモスクワ川やホワイトハウスの周辺に赤みが差して夜明け間近です。周辺を照らしていた灯りも一斉に消灯しました。
 6:45、ビルの陰から朝日がのぞき、横へ、横へ移動していきました。南米でも横に這う朝日を見たことがありますが、同じような現象です。

●豊富な朝食
 朝食はビュフェスタイルです。パンが豊富、ハムや野菜、果物も豊富。空腹だったのでたっぷり詰め込みました。アップルジュースはおかわりするほどの美味しいさ。これもイチオシです。
 ヨーロッパ人に混じって、日本人や中国人のグループもいます。モスクワは想像以上に人気のある観光地のようです。

●みごとな外観
 戸外に出たらひんやりした空気が全身を包みました。でも、肌寒さは感じません。半袖シャツの宿泊客も多く見かけます。秋が始まったモスクワですが、まだ夏が残っていました。
 見上げるホテルはゴシックスタイル。装飾を施したみごとな外観です。大きすぎて全景をカメラにおさめるのに苦労しました。ホテルの前にたつ大きな像は、19世紀のウクライナを代表する詩人で画家のタラス・シェフチェンコです。

●スターリン様式
 ホテルは典型的なスターリン様式で、モスクワの代表的な建物といわれています。スターリン様式とはなんぞや?。アメリカ・ニューヨークの摩天楼にコンプレックスを抱いていたスターリンが、それに負けないビル群の建設をめざして建てた7つの建物を指しています。
 1950年代、市内に建てられたゴシックの建物はどれも宮殿を思わせるもの。現在はホテルやアパートに使われています。モスクワっ子は7つの建造物を「7姉妹」とか「ウェディングケーキ」とか呼んでいるそうです。 

●汚濁のモスクワ川
 9:15、クレムリンの観光に出発。バスはモスクワ川沿いに走っています。汚濁がひどくて、魚も住めない状態。竿を差している人はスポーツとして釣りを楽しんでいるのだと、オリガさんは言いました。
 多民族国家のロシアには約100の民族がおり、同じロシア語でもアクセントが違うそうです。しかし、民族の同化が進んでおり、見た目にはどの民族かわからなくなっているとのこと。
 そんな説明を聞いているうちに、40分ほどで到着しました。

●すでに長い列
 曇天。怪しげな空模様になってきました。観光客がクレムリンに入場できるのは2か所、トロイツカヤ塔とポロヴィツカヤ塔の門からです。入場券売り場のあるトロイツカヤ塔の門から入る予定でしたが、先客で長い列ができています。
 少し離れたポロヴィツカヤ塔に移動して、そこから入場することになりました。ここにも団体客の列ができています。最後尾について順番待ち。オリガさんは入場券を買うためにトロイツカヤ塔へ引き返しましたが、待っても待っても戻りません。

●寺院広場へ
 後続の団体が次々に入場していきます。取り残された一行はいらいら気味。40分待ってようやく入ることができました。
 塔の門を潜って最初に見学するはずだった武器庫は大混雑。あと回にして、まず聖堂が建ち並ぶサボールナヤ広場(寺院広場)を見学することになり、歩を進めました。

●クレムリン(世界遺産)
 これから見学するクレムリンは地名ではありません。ロシア語の「城塞」という意味です。ここは旧ソ連時代から政治の中心として、テレビなどにしばしば登場しています。
 赤い塀を巡らした城塞はモスクワ川岸のボロヴィツキーの丘にあります。14世紀に造営されました。モスクワの創建者であるユーリー・ドルゴルーキー公がモンゴル軍の襲来に備えて、木造の砦を設けたのが始まりといわれます。
 木の柵で設けられた砦はモンゴルの攻撃で何度も破壊され、やがて石造りへ、さらに煉瓦へと変わりました。クレムリンはモミの木の緑に囲まれています。

●文化の粋
 入場を待つ間、見上げていた赤い城壁は1485年から着工され、総延長は2235m、総面積26万平方mあります。城壁はいびつな三角形です。
 城壁にはトロイツカヤ、スパスカヤ塔、ポロヴィツカヤなど20の城門と大小の塔があり、城壁の中には帝政時代の宮殿や聖堂などの建物群が目白押しです。
 主なものを列挙すると、ウスベンスキー大聖堂と十二使徒聖堂、大クレムリン宮殿、大統領府、武器庫、グラノヴィータヤ宮殿、イワン大帝の鐘楼など、などです。政治の中心であると共に文化の粋を結集させた場所でもあります。

●ロシア史の証人
 クレムリンは波乱に富んだロシア史の証人ともいわれます。聖堂群と共存するように大統領府がおかれ、政治、経済、軍事など国政を担っています。ソ連邦崩壊の折に共産党のシンボルであったレーニン像が撤去されたのは記憶に新しいところです。
 ドーム屋根に3色国旗が翻る大統領府は長い間、皇帝(ツァリー)が君臨し続けてきた権力の象徴なのです。

●寺院広場
 簡単な予習をしたところで、いよいよ観光の始まりです。手荷物チェックを受けてポロヴィツカヤ(松林)門を潜った一行が、まず向かったのは寺院広場。
 右手にモスクワ川を、左に双頭の鷲が見守るクレムリン大宮殿を見ながら先へ進んだところが広場でした。ここが寺院広場、あるいは聖堂広場といわれる観光スポットです。

●観光客の輪
 黄金の玉ねぎを載せたウスペンスキー大聖堂が白亜の十二使徒教会を従えるように建っています。近くで大小11の黄金ドームを輝かせているのはテレムノイ宮殿付属の聖堂。向かいに建つのはアルハンゲリスキー聖堂、イワン雷帝の鐘楼も聳えています。
 広場のあちこちには、観光客の塊ができて大変な人気です。幸いなことに青空が広がっています。イヤホンから流れるガイドの説明もそこそこに、目はきょろきょろと宙をさまよい始めました。

●サボールナヤ広場
 寺院広場と呼ばれるサボールナヤ広場は、クレムリン内でもっとも広い場所。ロシア正教会の聖堂群がひしめく聖域です。
 木造のクレムリン(城壁)を煉瓦造りに再建したイワン3世(大帝)と、その息子の2代にわたってウスペンスキー大聖堂やアルハンゲリスキー聖堂、ブラゴヴェシチェンスキー聖堂を完成させました。 

●ウスペンスキー大聖堂
 クレムリンの中央に建つウスペンスキー大聖堂は「聖母の昇天」を意味し、1475年から1479年にかけて建立されました。サボールナヤ広場で最初に創建された聖堂です。当時、モスクワのライバルであったウラジミールの大聖堂をモデルにしたといわれます。黄金に輝く5つのドームがあり、高さは38mです。
 かつてはロシア帝国の国教大聖堂として、歴代皇帝の戴冠式やモスクワ総主教の葬儀が行われる最も重要な聖域でした。ロシア連邦大統領の就任式には現在でもロシア正教会による祝福が行われています。

●堂内のフレスコ画
 堂内を見学しました。壁や天井のいたるところがフレスコ画で埋め尽くされています。その制作に1000人の僧が関わったと聞いて、さもありなんと納得しました。その中でも12世紀の聖ゲオルギー像と13世紀の三位一体像、聖ニコライのイコンなどが注目です。
 祭壇を背にして右側に皇后の席座、左側にはイワン雷帝の玉座があります。玉座は16世紀の作で木彫の傑作と評価されています。
 また、銀のシャンデリアはナポレオン軍が敗走するときに盗み出した銀5dを奪い返し、それをもとに造ったそうです。残念ながら堂内の撮影は禁止でした。

●アルハンゲリスキー聖堂
 ウスペンスキー大聖堂の向かいに建つアルハンゲリスキー聖堂は、1509年に建立されたました。逆光で見にくかったですが、5つのドーム屋根が目立つ聖堂です。広場では最初の石造り教会。
 18世紀までは皇帝や貴族たちの埋葬所でもあり、イワン3世やイワン4世ら歴代皇帝の遺体48棺が納められているそうです。

●タタールのくびき
 堂内にはロシアが「タタールのくびき」から解放された絵や15世紀のイコン「大天使ミハイル」などが飾られています。私たちは内部を見学することはできませんでしたが、入口のフレスコ画も見応えがありました。
 「タタールのくびき」とは、 15世紀末まで200年以上にわたって続いたモンゴル(タタール)による支配のこと。ロシア史ではこのように表現しています。

●十二使徒聖堂
 ウスペンスキー大聖堂の北隣に建つ十二使徒聖堂は、17世紀に宗教改革を断行した総主教ニコンが建てた純ロシア風です。
 総主教の礼拝所として使われました。教会に接続してパトリアーシェ宮殿があります。

●イワン雷帝の鐘楼
 寺院広場の中心に聳えている純白の塔はイワン雷帝の鐘楼です。珍しい八角形で高さは81m。1532年に金色のドームが輝く現在の鐘楼が完成し、21個の鐘が取り付けられました。
 しかし、ナポレオン軍がモスクワ側の反撃にあって敗走するとき、3個を破壊したといいます。
現在は教会として使われ、その一部は現在改修工事中でした。

●テレムノイ宮殿
 クレムリンには、クレムリン大宮殿を中心にグラノヴィータヤ宮殿、テレムノイ宮殿、クレムリン大会宮殿が建ち並んでいます。
 その中で観光客の注視を浴びていたのがテレムノイ宮殿の付属聖堂の屋上に輝いている11の黄金ドームでした。小型のドームですが、秋の日ざしに輝く華麗な様は見る者を驚嘆させます。
 ちなみに宮殿は1636年に造営されたロシア帝国の歴代皇帝(ツァーリ)の別邸です。

●ブラゴヴェシチェンスキー聖堂
 ブラゴヴェシチェンスキー聖堂(受胎告知寺院)は改修中。緑の覆いをすっぽり被り、9つの黄金ドームだけがちょこんと顔を見せていました。
 皇帝や皇后の私的な礼拝所として1489年に建てられたの聖堂です。

●大砲の皇帝
 寺院広場の駆け足観光を終え、次に向かったのは大砲の皇帝でした。「大砲の王様」とも呼ばれる超特大の大砲は、厳つい砲口で一行を迎えてくれました。
 黒光りのする砲台は浮き彫りされたライオンの顔が正面を睨みつけています。その上に乗っかっている青銅の砲身は何人をも威圧する大きな口を開けていました。

●1度も発射せず
 大砲は1586年に製作されたカノン砲。砲身の全長5.3m、厚さ15cm、口径89cm、そして重量が40dもあって、中世では世界最大級の大砲でした。
 大砲の前に置かれている弾丸は19世紀に製造されたもの。これは単なる飾りで、これまで1度も発射されたことがないそうです。

●ロシア大統領官邸
 大砲の皇帝から鐘の皇帝へ向かう前方に黄色い建物が2棟見えました。ロシア大統領官邸と大統領府です。2つの建物は赤の広場に面しています。
 官邸は革命後、レーニンら歴代のソ連指導者の執務室になっています。帝政ロシア時代は元老院、ソビエト時代には閣僚会議館でした。
 また、大統領府は1934年に建てられ、ソ連時代は最高会議幹部会館でした。レーニンはここに住んでいたそうです。
●鐘の皇帝
 鐘の皇帝には修理中の囲いがしてあって、上部しか見ることができませんでした。1735年、当時の鋳造技術を総動員して造られた高さ6m、直径6.6m、重量200トンの巨大な鐘です。
 製造の途中で火災が発生し、消火のために水をかけたところ一部が欠けてしまい、未完成の鐘になってしまいました。ですから、その鐘の音を聞いたものは誰もいないそうです。欠片も一緒に展示していますが、その重さだけで11dもあります。全容を確かめることができなかったのは残念です。

●クレムリン大宮殿
 先ほど横目に見てきたクレムリン大宮殿は1848年、ロシア人の建築家集団によって再建されたものです。最初の宮殿は1812年にナポレオンがモスクワに侵攻した際に焼失しました。
 大宮殿は既存のグラノヴィータヤ、テレムノイ両宮殿を呑み込む全長125m、奥行き63mの建物。外観は3階建て、内部は2階建てになっています。

●700の部屋
 宮殿は皇帝ニコライ1世のときに完成。700もの部屋がある巨大な建造物です。1階に皇帝の私室、2階はホールになっています。
 エカテリーナ、ウラジーミル、ゲオルギーなどの名がついた部屋があり、それらの部屋は聖ゲオルギー勲章の叙勲式や条約調印、ソ連最高会議など、重要な国家行事に使われました。

●グラノヴィータヤ宮殿
 見学はしませんでしたが、1891年の造営されたグラノヴィータヤ宮殿というのもあります。帝政ロシア時代にはイワン雷帝やピョートル大帝の戦勝祝いなど、公式行事に用いられました。
 現在はクレムリン大宮殿に組み込まれましたが、内部に高さ9mのドーム状のホールがあます。

●クレムリン大会宮殿
 構内にはクレムリン大会宮殿もあります。1961年に建てられたクレムリンでは最も新しい宮殿。トロイツカヤ塔の北側にあり、旧ソ連最高会議や共産党大会が行われました。
 ガラス張りの近代建築で議事堂は6000人を収容可能。ソ連共産党の党大会や国際会議場として使用され、現在も演劇やバレエ公演などに使われいます。

●宮殿兵器庫
 ほかに宮殿兵器庫もあります。これも時間がなくて見られませんでした。内部は非公開ですが、広場にはナポレオン軍から奪った875の大砲が飾られているそうです。

●武器庫とダイヤモンド庫
 クレムリンに入場したポロヴィツカヤ門付近に戻って、いよいよ武器庫とダイヤモンド庫の見学です。ここにも行列ができていましたが、それほど長くはありません。しかし、「手続きをしてきます」と地下へ降りたオリガさんが戻らず、またもや後続の人たちにに先を越されてしまいました。
 待ちくたびれたころになって、ようやく入場できました。カメラ、携帯電話、計算機、傘などの持ち込みは禁止です。添乗員のSさんがバックに預かってくれました。

●武器庫
 武器庫は16世紀の建造です。設計者はクレムリン大宮殿と同じコンスタンチン・トーン。1720年にピョートル大帝の勅令によって博物館として一般公開されています。
 コレクションはニコライ1世によって進められました。13世紀から18世紀にかけての鎧や甲、14世紀から19世紀の織物、宮廷衣装、金銀細工、ロマノフ家の宮廷馬車、エカテリーナ2世の煌びやかなドレスや馬車などが展示されています。宝物殿とも呼ばれています。

●ため息、感嘆…
 展示室は1、2階に9つあります。1階ではエカテリーナ女帝の戴冠式ドレスやイワン雷帝の玉座、18世紀の宮廷馬車の数々、アンナ女帝の王冠などを見ました。
 エカテリーナのウェストの細さにびっくりしたり、宝石をちりばめた王冠にため息をついたり、宮廷馬車の精巧な装飾に感嘆したり。
 2階では金銀の食器や32kgもあるという銀製の豹、「ファベルシェのたまご」などイースターエッグの数々を見ました。

●ダイヤモンド庫
 ダイヤモンド庫は武器庫の北側に併設されています。金塊のラクダやウサギの耳、目もくらむばかりのダイヤの王冠や錫杖など装飾品の数々が展示されていました。
 中でも注目は愛人の1人がエカテリーナ2世に贈ったダイヤモンド「オルロフ」です。世界最大といわれています。
 王宮の栄華を見せつける展示品の数々。あまりの煌びやかさをたくさん見ているうちに、何だかばかばかしくなってきました。つい、税金を搾取されたであろう庶民の暮らしに思いがいってしまいます。

●撮影禁止のはず?
 内部の撮影は今年4月から禁止され、カメラの持ち込みはできません。ガイドの説明をメモしていたら、係の男性から「ダメ」と注意されました。メモもダメという厳しさに驚きました。
 しかし、ロシア人らしい団体や西欧の団体の中にはビデオやデジカメで撮し放題も見受けます。堂々と携帯をかけている人もいます。係員はなんの咎めもしません。これは一体、どういうこと??。

●トロイツカヤ塔
 明らかな差別に嫌な思いをしてポロヴィツカヤ塔を出ました。バスでレストランへ向かう車窓からトロイツカヤ塔をみると、まだ長蛇の列が続いていました。
 トロイツカヤ(三位一体)塔は高さが80mあって、城壁でもっとも高い塔です。かつては戦場に赴いた皇帝や軍隊が帰還するときに用いられました。また、1812年にモスクワを侵攻したナポレオンもここから入場したのです。
 塔の先端に輝くのは星形のルビー。20塔のうち、スパスカヤ、ニコリスカヤなど6塔に輝いています。

●イワン雷帝
 晴れ、雨、曇りを繰り返していた気まぐれ天気は、またひどい降りになりました。クレムリン観光の際によく耳にしたイワン雷帝(4世)とは、どんな人物だったのでしょう。
 彼はロシア人を苦しめた「タタールのくびき」からロシアを完全開放したイワン3世の孫。3歳で即位し、16歳のときに初の皇帝(ツァーリ)として戴冠しました。
 在位は1533年から1584年までの長きにわたり、その間、近代化を進めてロシアで初めて印刷所を造るなどの功績を挙げました。しかし、その一方では農奴制を創設するなどして、ロシア史上最大の暴君といわれています。
 全ロシアに君臨した独裁君主、イワン雷帝の生涯を描いた映画が公開されたこともあります。

●ロシア料理
 13:15、雨の中をバスは赤の広場に近い賑やかな一角に停車しました。その中のレストラン「ゴゾノフ」で昼食です。日程表によると、ボルシチ、ピロシキ、ビーフストロガノフなどのメニューが並んでいます。
 ロシアの食事は野菜が多く、日本人の口にも合いやすいと聞いてきました。初めて口にするロシア料理はどんな味でしょう。期待を込めてテーブルに着きました。

●ボルシチ
 まず登場したのは、土鍋に入った真っ赤なボルシチです。肉と野菜を煮込んだ赤カブ(ビーツ)入りのスープ。適度な酸味が口内に広がって爽やかな味です。塩辛くも、脂濃くもありません。「美味しいね」「口に合うね」と、なかなか好評です。鍋の底が深いので、具たっぷりのスープでした。
 ボルシチとはスラブ語で「赤カブ(ビーツ)」の意味。ウクライナの民族料理が19世紀に昼食用の家庭料理として普及しました。

●40種以上も
 ボルシチは具の内容で40種類以上ものバリエーションあるそうです。各家庭の味がある日本の味噌汁といったところでしょうか。
 赤カブとともに欠かせないのが牛乳からできたスメタナ。赤いスープの表面にぽっかり浮かんでいます。サワークリームに似た感じで、それを攪拌しながらいただきました。

●ピロシキ
 ボルシチとともに登場したのはピロシキ。私たちが普通に食べているジャムパンと変わりません。日本人に馴染みの具入りの揚げパンとは似ても似つかぬ代物。「これがピロシキ?」。どの顔も怪訝な表情です。
 ピロシキにもいろいろあるそうですから、今回はたまたまジャムパン風だったのでしょう。そういうことで全員が納得でした。

●ビーフストロガノフ
 最後に登場したのはビーフストロガノフです。これも代表的なロシア料理の1つ。皿の上にパイの包みがあり、その中にビーフ、タマネギ、キノコなどのシチューが入っていました。これにも「美味しい」との感想がこぼれます。これも口に合いました。
 もともとはウラル地方のストロガノフ伯爵家に伝わる料理だったといわれています。ポテトフライやピクルスなどと一緒に食卓に上ることが多い料理です。添え物のジャガイモもほくほくして美味しかったです。

●黒パン
 ロシアといえばライ麦粉が原料の黒パンです。パン生地をつくるときにクワスを混ぜるのが特徴です。クワスはライ麦と麦芽を醗酵させてつくるロシアの伝統的な微アルコール性の飲み物。
 食べ慣れると歯ごたえと酸味がたまらなく、やみつきになる人が多いと聞きます。ちょっとぱさぱさした感じでした。

●最高齢83歳
 食事中に参加者の自己紹介がありました。最高齢は83歳の男性。77歳の男性もいます。温厚で元気はつらつ。そのうえなかなかの健啖家です。
 今回も20代と思われる女性2人を除いては高齢者ばかり。「そろそろ海外旅行から引退を」とも考えていましたが、体を労ればまだまだ行けそうとの勇気をもらいました。

●賑わい
 腹を満たした後は赤の広場の観光です。ぶらぶら歩く予定でしたが、雨が降り止まないのでバスで向かいました。すぐに着いたところは、艶やかな聖ワシリー寺院前。トロイツカヤ塔と寺院をカメラに収めて広場へと歩を進めました。
 ありがたいことに、雨が止んでちょっぴり青空がのぞいています。赤の広場もまた、多くの観光客で賑わっていました。白いウェディングドレスの新婚さんが何組も記念写真を撮っています。

●赤の広場(世界遺産) 
 赤の広場はクレムリンの北東にある長さ695m、幅130mの空間。面積はざっと7万3000平方mです。広場は城壁と聖ワリシー聖堂、国立博物館、グム百貨店に囲まれています。
 ソ連時代にはメーデー行進や革命記念日の軍事パレードなどが行われ、赤旗の波打つ光景がニュースにも登場しました。
 赤の広場に面して建つピラミッド型のレーニン廟にはソ連の初代指導者、レーニンの遺体が安置されています。その雛壇に並んで観閲するソ連邦幹部の姿も当時は馴染みのものでした。

●美しい広場
 広場はもともと商人が露店を並べる市場でした。雨や雪解け水で泥沼化しいてひどい状態だったのを、100年ほど前に整理して現在の広場になったのです。「赤の広場」と呼ばれるようになったのもそのころらしのです。
 「赤」を表すロシア語の「クラースナヤ」には「美しい」という意味もあるそうで、赤くもないのに「赤の広場」と命名された由来は「美しい広場」からきているということです。
 500年以上の歴史を持つ赤の広場には、聖ワシリー寺院をはじめとする見どころがたくさんあります。

●聖ワシリー寺院
 赤の広場に来たからには、何をさておいても聖ワシリー寺院です。奇想天外ともいえるカラフル、奇抜デザインの寺院は広場の象徴として、またロシア正教聖堂の象徴として君臨しています。長年「1度は見てみたい」と思い続けていた寺院です。
 鮮やかな色彩を放つ9つのドームは聖霊を表す火焔の形とされています。見るものを圧倒する現在の姿になったのは1560年です。

●戦勝記念に
 聖堂が最初に建てられたのは1552年。カザン・ハーン(汗)国の併合を成し遂げたイワン4世が戦勝記念として建立しました。木造建築で当時はポクロフスキー(生神女庇護)聖堂でした。その後、ロシア人設計者2人が担当して現在の石造りに改築したということです。
 1588年、聖人ワシリーの祭室が加わったのを機会に、聖堂全体を「聖ワシリー寺院」と呼ぶようになりました。

●9つのドーム
 色彩、形が異なる9つのドームは、それぞれが独立した聖堂になっていて回廊で結ばれています。回廊は花柄をモチーフにした壁画で飾られています。内部よりも外観の方が有名ということで、今回は堂内の観光はしませんでした。 
 さすが、人気の寺院です。周囲は人、人、人…。花嫁さんが友人や親族と並んで記念撮影しています。こちらでは挙式をすませたカップルが近郊の名所に出かけて記念写真を撮るのが習わしになっています。寺院はまさにぴったりの場所です。

●主聖堂
 9のドームを簡単に紹介しましょう。中央にそびえるのが主聖堂と呼ばれるポクロフスキー聖堂。ココーシニクと呼ばれる飾り破風が施されています。これはロシア聖堂の特徴といわれるものです。
 ポクロフスキー聖堂の名は、イワン雷帝(4世)がカザン・ハーン攻略の最後の準備をした日がちょうど生神女庇護祭であったことに由来するそうです。

●その他の聖堂
 聖ワシリー聖堂は1588年に建立された小さな聖堂。路上生活をしながら布教に務め、厚い信仰を得た聖ワリシーの祭室です。聖キプリアン聖堂はカザン・ハーンに最後の攻撃をした日の翌日が聖キプリアンに感謝する祝祭日だったところから、記念として設けられた聖堂です。
 エルサレム入城聖堂はキリストがエルサレムに入城したことを記念する「聖枝祭」が行われた小さな聖堂です。イコノスタシスはロシア正教で信仰の要となるイコン(聖画像)を複数並べた聖障のことです。

●残虐な逸話
 聖ワシリー寺院には残酷な逸話が残っています。それまでの常識を覆すような画期的な建物。1つ1つ違う形の精巧なねぎ坊主のドーム、さらに加えて鮮やかな色彩。
 あまりの美しさに感動したイワン4世は「2度とこれほど美しい建物ができないように」と設計者2人の目をくり抜いたとか。もちろん真偽のほどはわかりません。

●ミーニンとポジャルスキー像
 聖堂の裏手に男性2人の銅像があります。像の主は商人のミーニンと貴族のポジャルスキーです。
 2人は人民義勇軍を組織、指揮してモスクワを占領していたポーランド軍を追いやった国民的英雄です。それは1612年のことでした。

●ロブノエ・メスト
 聖ワシリー聖堂の前に、お立ち台のような丸い石があります。ロブノエ・メストといって皇帝が全国に布令を発したり、イワン4世が重罪人を処刑した場所です。
 農民やコサックたちが蜂起した反乱の首謀者ステンカ・ラージンもここで処刑されました。石造りの壁に囲われた円形石は、何となく陰鬱な感じがしました。

●スパスカヤ塔
 広場の中央に建って辺りを見回すと、大きな時計をもった立派な塔が見えます。政府要人や外国からの賓客を迎える公用に使われているスパスカヤ(救世主)塔でした。
 城壁に20ある塔のうち、クレムリンと赤の広場を結ぶ一番格式が高い塔です。以前はフローロフスカヤ塔と呼ばれていました。
 塔の高さは75m。17世紀に文字盤の直径が6mあまり、重量25dという大きな時計が設けられ、時計塔の愛称で親しまれています。塔の下にはスパスキエ門があり、 赤の広場から大統領官邸、大統領府へと通じています。

●レーニン廟
 広場を囲む城壁の中ほどに緑色をしたピラミッド型の建物があります。ロシア革命の指導者、ウラジーミル・レーニンの遺体を安置するレーニン廟です。
 レーニンは1924年1月に死去し、その3日後には廟が建設されたといいます。現在の赤土色の廟になったのは、それから5年後のこと。23段の階段を下りた地下のガラス張りの棺に安置されています。

●一般公開
 クルプスカヤ夫人ら遺族は遺体保存に反対しでしたが、後継者のスターリンが永久保存と一般公開を決定しました。遺体は防腐処理されていて、いまも参拝者が絶えません。
 レーニンの本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ。レーニンとは「レナ川」を意味するペンネームだとか。地下活動のころは150もの偽名を使っていたともいわれます。

●国立歴史博物館
 聖ワシリー寺院の対面に建っているチョコレート細工のような建物は国立歴史博物館です。革命以前のロシアの歴史を語る資料が展示されています。内部を見学する時間はありませんでしたが、とくに考古学に関する資料が充実し、皇室ゆかりのものも展示されていると聞きました。
 その横にクレムリンの塔をコピーしたような2つの塔、ヴァスクセンスキー門があります。スターリンがパレードの邪魔になると破壊しましたが、ソ連崩壊後の1995年に当時の姿に再建されました。

●聖カザン聖母聖堂
 赤の広場の賑やかな一角に建つ色彩鮮やかな寺院は聖カザン聖母聖堂です。1912年のポーランド侵攻を防いだ記念に建設されました。しかし、スターリンによって破壊され、ヴァスクセンスキー門と同じ運命を辿りましたが、1993年によみがえりました。
 教会の由来になったカザン聖母のイコンは、ピョートル大帝の時代にサンクト・ペテルブルクへ移されました。外観の派手さに比べて堂内はシンプルだということです。

●グム百貨店
 赤の広場の北東に長く横たわる建物はグム百貨店です。1893年に建てられ、1953年に大改修された3階建て。外資系の出店が大半を占めています。ここでも改修工事が行われていました。
 広場のあちこちで新婚さんを囲む輪ができています。熱い、熱いキスをはやす「アジーン(1)、ドゥヴァー(2)、トゥリ(3)…」のかけ声が響いて「結婚の日」の華やかさにあふれていました。金曜日は週末の連休を控えて挙式が多いので、ロシアでは「結婚の日」と呼んでいるそうです。

●日本人わんさ
 これで赤の広場の観光は駆け足で終了です。ソ連邦の権力を見せつけていた広場は、意外に狭く感じました。きょうの観光は盛りだくさん。まだまだ続きます。今度はバスでレーニン丘(すずめが丘)のふもとに建つノボデビッチ修道院へ向かいます。
 途中の土産物店でトイレを兼ねて休憩。日本人のグループがいくつも入店しています。人数が多いのにトイレは男女共用の2つだけ。順番待ちに時間がかかりました。誰かが「これは店の作戦。時間をかけさせて、その間にたっぷり商売しようという魂胆だ」といっていました。

●ノボデビッチ修道院
 休憩中、また雨になりました。きょう3度目の晴れのち曇り、のち雨の繰り返しです。文豪トルストイの像が建つ広場を通過した頃には止んでくれました。
 16:30、ノボデビッチ修道院に到着。現在は女子修道院ですが、かつてはクレムリンの出城として、さまざまな武勇伝を持っています。16世紀末には侵攻するタタール軍を砲撃したり、17世紀にはポーランドの盟友、リトアニア軍を出撃隊が食い止めるなどしました。

●イコノスタシス
 カラフルな城門を潜って入場しました。修道院にはいくつかの建物があります。まず、スモレンスキー聖堂のフレスコ画を見ました。カメラ撮影には60ルーブルが必要です。
 堂内の壁には聖人たちがびっしり描かれ、金ぴかのイコノスタシス(聖障)が飾られていました。

●男声合唱団
 この後、隣の建物で男性5人の合唱を聴きました。「ボルガの舟歌」など馴染みの数曲を披露してくれましたが、きれいなハーモニーにしばし聴き惚れました。
 とくに、バスの響きがみごとで、日本人が歌うロシア民謡とは格段の差を感じました。お決まりのCDも販売。数人が思い出にと買っていました。

●白鳥の湖
 城壁の門を出ると、左手に水鳥が浮かぶ池がありました。水面に樹木の陰を映しているこの池は、あの有名なバレエ「白鳥の湖」のモデルだそうです。
 チャイコフスキーの曲は何度も耳にしていますが、ここからイメージしたとはとても思えない平凡な池でした。私たちはサンクト・ペテルブルクでバレエを観賞することになっています。

●修道院に城壁  
 修道院の広い敷地内では修道女の姿をよく見かけます。厳しい表情もあれば、数人が談笑しながら歩く姿も。しかし、修道女を撮影することは御法度です。
 城壁には立派な見張り台のような、望楼のようなものも見かけました。タタール(モンゴル)軍を砲撃したのはここからだったのでしょうか。  

●別荘への日
 観光はまだ続きます。今度は市民の憩いの場になっている「すずめが丘」へ。道路がかなり混雑しています。金曜日は「結婚の日」であると共に「別荘への日」でもあります。多くの人が狭いアパート生活から郊外の別荘(ダイチャ)へと逃れる日なのです。
 強引な割り込みの車、対向車線を逆走して先を争う車、待避所の未舗装部分をわれ先にと突っ走る車…。交通ルールも、マナーもあったものではありません。ガイドによると、これが金曜日に見せる普通の光景なのだとか。

●すずめが丘
 菩提樹の並木を通り、枝いっぱいに実をつけたリンゴやナナカマドを眺めながら、丘に着いたのは17:30。どんより曇った上空はいまにも泣き出しそうです。それでも婚姻届けを出したばかりの新婚さん2組や祝福する男女、市民たちで賑わっていました。土産物を売る露店も並んでいます。
 モスクワ市の南西部にある標高100m足らずの高台ですが、モスクワでは1番高い場所で眺望が楽しめます。ソ連時代はレーニン丘と呼ばれていました。

●市内を眺望
 丘からは先ほど訪れたノボデビッチ修道院の黄金ドームや救世主キリスト大聖堂、オリンピックスタジアム、キエフ駅などが眺望できました。丘にはモスクワ大学本館も建っています。
 スキーのジャンプ台もありました。アプローチやランディングバーンが短い小さな台です。近郊に山のない都市部では練習にも事欠くのでしょう。ロシアのジャンパーが好成績を残したという話は聞いたことがありません。

●ただただ驚嘆
 長かった観光は終わりました。バスに乗るころ、きょう4度目の雨が降り出しました。冷たい雨の中を多くの人が傘も差さずに歩いています。モスクワっ子は気まぐれ天気に慣れっこになっている様子です。
 ロシア正教独特の玉ねぎドームをたくさん見ました。黄金のキューポラ、奇抜なデザイン、鮮やかな色彩…。どれも目を見張るばかりです。聖ワシリー寺院には「よくも考えついたものだ」と驚かずにはいられません。

●ロシア正教会
 ところで、ロシア正教会とは東方正教会に属するキリスト教です。989年にキエフ・ロシア大公のウラジミール1世がキリスト教に改宗し、ギリシア正教をロシアの国教にしました。ギリシア正教会の中で最大の自立教会として約3500万人の信者がいます。総指導者はモスクワ総主教で、現在の総主教はアレクセイ2世です。
 ロシアの伝統、文化の象徴とみなされ、政府もロシア正教会の祝日を公式の祝日に定め、政治家は教会の大きな祝祭に出席します。

●苦難の歴史も
 ロシア正教会には苦難の歴史もあります。ロシア革命後、政府の無神論運動によって多数の教会や修道院が閉鎖され、財産が没収されたりしました。
 また、聖職者や信者が外国のスパイなどの嫌疑で逮捕されるなど、激しい迫害を受ける時期もありました。第2次世界大戦で祖国防衛に貢献したことが認められて、再び活動を開始しました。 しかし、神秘主義の強い宗派ゆえの問題も抱えています。ローマ教皇庁との緊張関係も取りざたされ、モスクワ総主教とローマ教皇の対話もあまり進展していないということです。

●ウラジミール1世
 長くなったついでに、ロシア正教を国教に定めたウラジミール1世(955年-1015年)について少しばかり触れておきます。
 キエフ公国のスヴャトスラフ1世(大公)と、957年に東方正教会に帰依した母オリガの間に生まれました。父の死後、兄との争い勝利して大公として即位し、キエフ公国の領土を拡大したり、最先端のビザンツ文化を採り入れるなど、政治、軍事、文化など幅広くに優れた手腕を発揮しました。
 後に「聖公」と崇められ、その功績は古代英雄叙事詩の「ブィリーナ」でも賞賛されています。

●ひと息
 18:10、町のレストラン「ヤルサン」で夕食。オリーブのサラダ、チキンの煮込みとライス。デザートはパンケーキでした。昼、夕食どきに水がサービスされ、食後にはコーヒーか紅茶がつきますので、アルコール苦手な自分には大助かりです。
 添乗員のSさんは「オリーブでお腹をこわす人もいますので注意して」といっていました。本人の実体験ということ。テーブルに腰を下ろして、やっとひと息つけました。

●3万歩?
 ホテル「ウクライナ」へ戻ったのは20:10。歩き通しだったので疲れました。8月初旬に同じコースを添乗したSさんの話では、その時の客がつけていた万歩計が3万歩だったから、きょうもそのくらいは歩いているだろうとのこと。病み上がりの身にしては、よくついて行けたと思います。 
 ホテルには今夜も大勢の観光客が宿泊しているようで、ロビー周辺がざわめいていました。


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