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◎8月29日(火)晴 (6日目)
 (モスクワ→サンクト・ペテルブルグ泊)

●重量制限
 今日はサンクト・ペテルブルクへの空路移動日。早立ちなので2:45に起床しました。出発前に旅行会社から「ロシアの国内線はスーツケース+手荷物=20kgの制限が厳しい」と告げられていました。
 妻はこの日に備えて、荷物をできるだけ減らすように工夫したので余裕の重量です。手荷物には飲料水もダメということです。戸外は昨夜眺めた風景が続いていました。

●眠らぬコスモス
 4:20、添乗員のSさんがドアをノック。いつものモーニングコールですが、さすがに眠そうな声です。スーツケースは部屋の中でポーターに渡しました。
 1階に降りると、レストランなどはすでに営業中。寿司店のネオンサインが点滅し、スロットマシンの前には数人が陣取っていました。眠らぬコスモスです。

●トラブル?
 5:15に出発のはずなのに、世話をしてくれる現地のサブ・ガイドもバスも来ません。サンクト・ペテルブルグ行きのアエロフロート・ロシア航空SU835便は8:15発の予定ですが、空港までの時間やセキュリティーの時間を考慮して早めの出立に決めていたのです。
 ロシア語が苦手な添乗員は必死です。ホテルの1階、地階などを探し、どこかへ電話したりしています。朝食の弁当を抱えた仲間からは「行かれなくなったら日程は大狂いね」などのささやきが漏れはじめました。

●霧のドライブ
 いらいら待つこと20分。空港での世話をしてくれる女性が姿を現しました。これならまだ間に合いそうです。よかった。会社からは5:45出発と聞いていたそうです。連絡の行き違いらしいとわかりました。あたふたとスーツケースを積み込んで発車。
 車内でパン、チーズ、ゆで卵、ヨーグルトなどの弁当を食べました。上空が少しだけピンクに染まり、その後は霧の中のドライブに。バスは減速し、対向車のライトがぼんやり浮かんでいます。

●フリーパス
 早朝が幸いして渋滞にも巻き込まれず、国内線のモスクワ・シェレメチェヴォU国際空港には6:30に到着できました。
 手荷物検査を受けてロビーへ。搭乗前にやや厳しいボディチェックがありました。靴を脱ぎ、ベルトを外し、パスポート入れまで念入りに点検されました。しかし、飲料水の持ち込みはお咎めなし。スーツケースは素通りです。重量の計測もなくて総体的には甘い検査でした。

●割り込み平然
 空港前は不法駐車で混雑し、セキュリティーの列では割り込み平然。後ろに並ぶように注意してもまったく無視されました。ロシア人のマナーはよろしくありません。「きちんと並ぶ教育をされていないのでは」という声もありました。
 8:00シャトルバスで機内へ。SU835はかなり使い古した機体で満席でした。15分後に離陸し、サービスのサンドパンを食べ、ドリンクを飲み終わったら、もう着陸態勢に入っていました。

●大渋滞に
 9:25、曇り空のサンクト・ペテルブルグのプルコボT空港に着陸。スーツケースはポーターがバスまで運んでくれました。到着口で待っていてくれた現地ガイドはユーリーさん。がっちりした体躯の中年男性です。日本語で「よくいらっしゃいました」と迎えてくれました。
 きのうは土砂降りだったそうです。市内に向かう4車線道路は徐々に車が増えだし、町に入るころには大渋滞になりました。  

●ラッシュアワー
 とことどころにユーリーさんがいう「ねずみ取り(交通取り締まり)」のパトカーを見かけますが。これでは取り締まりのしようがないと思います。
 街路樹はかなり色づいています。コーラーやウオッカの製造工場を見かけます。工場や会社は8:00から11:00ごろにかけて始業するので、まだラッシュアワーなのだとの説明がありました。

●文化が違う
 サンクト・ペテルブルグはフィンランドまで195km、エストニアまで145kmですが、モスクワとは670kmも離れています。
 「だからロシアには2つのロシアがあります。サンクト・ペテルブルグとモスクワです。ぜんぜん文化が違います」とユーリーさん。「プーチン大統領がサミット会場(7月)にペテルブルクを選んだのは賢明でした」と得意げでした。

●サンクト・ペテルブルグ
 休む間もなく観光です。バスはニコライ聖堂を目ざしています。渋滞は工事が重なったことも原因でした。ここで、サンクト・ペテルブルグについて少しばかりの予習を―。
 ロシア連邦の北西端に位置する人口約470万人の国内第2の都市です。町はフィンランド湾に注ぐネヴァ川の河口地帯に広がるロシア有数の港湾都市で、水の都でもあります。そのネヴァ川は運河や河川を通じてカスピ海、バルト海へとつながる交通の要衝です。   

●島と水路と橋と
 サンクト・ペテルブルグは42の島が縦横に延びる86運河や水路によって結ばれている町です。橋の数は350もあります。その両岸には精緻な装飾を施した宮殿など、歴史的な石造りの建造物が建ち並んでいて、それを目当ての観光客が世界各地から訪れます。
 かつては101の島がありましたが、埋め立てられて陸続きになり、現在の42島になったそうです。

●有名な建造物
 町には有名な建物が目白押し。エルミタージュ美術館、ピョートル1世の夏宮と冬宮、イサク聖堂、ペトロパブロフスク要塞、聖ペトロパブロフスク大聖堂などがあります。
 また、プーシキンをはじめ、ドストエフスキー、ネクラーソフ、ゾシチェンコなど、名だたる文豪の旧居も保存されており、プーチン大統領の出身地でもあります。

●悲惨な戦災
 かつての帝政ロシアの首都は、第2次世界大戦で900日間もドイツ軍に包囲され、激戦や病気、飢餓のために約125万人が死亡しました。町は焼け野原となって1万棟を超す建物が全壊もしくは半壊するという悲惨を体験しています。
 大戦後とソ連崩壊後に積極的な再建が進められ、2003年には建都300年祭のイベントが盛大に行われました。現在、市の中心部にある建築は18世紀から19世紀のものが大半です。

●建物に風格
 凱旋門を通過したら町の様相ががらりと変わりました。殺風景なコンクリートからカラフルなヨーロッパの雰囲気へ。凱旋門はトルコとの戦勝記念にニコライ1世が建てたもの。
 両サイドの建物は薄緑、ベージュ、茶、ピンク、黄などで彩られています。実にカラフル。外壁のデザインがまた凝っています。年輪を経てやや色褪せてはいますが、どの建物も100年以上の風雪に耐えた風格をにじませていました。

●ニコライ聖堂
 町の中に警官が多いのは、共産党指導部のお偉いさんが通るためだそうです。運河にかかるエジプト橋を渡ってしばらく進んだところに、ニコライ聖堂は建っていました。
 ブルーの入場門を入ると、コリント様式の列柱に支えられたブルーの聖堂が金色のドームを青空に輝かせています。

●凝った外観
 聖堂は1753年に創建されました。2階建てで、なかなか凝った装飾です。窓枠の上部には表情を変えたエンジェル?の浮き彫り飾られていました。
 聖堂が建っている場所は、ピョートル大帝の時代に海運関係者の居住地だったところ。教会はいまも活動中で、日露戦争の犠牲者の冥福を祈る場所になっています。2階は祭事の時にだけ使っているそうです。

●マリインスキー劇場
 バスはイサク聖堂へ向かっています。左手にうす緑色の優雅な建物を見かけました。ロシア有数の音楽劇場の1つ、マリインスキー劇場でした。
 建物は1859年に完成し、帝妃マリア・アレクサンドロヴナの名にちなんで命名されそうです。スターリン時代はレニングラード・キーロフ歌劇場でした。劇場のバレエ団はロシアの舞踏芸術のリーダ役をつとめてきました。

●バレエ劇場
 市内にはエルミタージュ、 ムソルグスキー記念オペラ、マリインスキー劇場など15以上のバレエ劇場があります。その中でもっとも古いといわれるのは、1832年に開館したアレクサンドリンスキー劇場です。
 自分たちは今夜、ミュージカル・コメディー劇場で「白鳥の湖」を観賞することになっています。

●イサク聖堂
 モイカ運河を渡ったバスは、すぐに右折してイサク聖堂に着きました。金色ドームが輝く重厚な建物です。1858年に完成した大理石と花崗岩づくりですが、湿地帯のため工事が難航し、建設に40年の歳月を費やしました。
 聖堂の建設に心血を注いだのは、工事を途中で引き継いだニコライ1世でした。気むずかし屋の彼は何度も工事をやり直しさせたといいます。 

●高さ100m
 聖堂は奥行き110m、幅97m、収容人数1万4000人という世界屈指の大聖堂。その上に聳える金色のドームを含めた高さは101.5mです。重厚な外観は保守色の濃いニコライ1世の思想を反映させたものといわれまています。
 堂内は見事な宗教画で彩られ、19世紀のロシア宗教美術の宝庫と高い評価を得ています。ちなみにイサク聖堂の名は、ピョートル大帝の誕生日の5月30日が守護聖人、イサク・ダルマツキーを祀る日だったことから命名されました。  

●ニコライ1世馬上像
 工事中に作業員60人が食中毒で死亡、その墓場の上に建つ寺院。聖堂前の広場には建設に情熱を注いだニコライ1世の立派な馬上像が建っていました。1859年に建造された像は人物群の浮き彫りに支えられ、聖堂正面を見据えています。
 いまは写真タイム。午後から堂内を見学することになっています。

●はためく国旗
 馬上像の後方、運河の対岸に白、青、赤3色のロシア国旗がはためく旧市庁舎のマリア宮殿がありました。横に並んだ3色はスラブの3原色と呼ばれます。上の白色は高貴と率直の白ロシア人を、真ん中の青色は名誉と純潔性の小ロシア人を、下の赤色は愛と勇気の大ロシア人を表わしているそうです。
 1991年にソ連邦が崩壊してエリツィン大統領の率いるロシア連邦が成立。それを機会に帝政ロシア時代の3色旗を国旗として復活させました。

●堂々の違反
 バスは近くのデカブリスト広場に建つ青銅の騎士像へ向かいました。チャイコフスキーが逝ったという黄色いアパートがありました。一方通行が多いので、バスが何処をどう走っているのかわかりませんが、遠くには赤いロストラの灯台柱が見えていました。
 道路の両側には路上駐車がずらり。駐車違反の標識の前に外交官の赤ナンバー3台も堂々の駐車です。これらの不法駐車が渋滞を招いているのですが、駐車場らしいものにはお目にかかったことがありません。

●青銅の騎士像
 青銅の騎士像は緑豊なデカブリスト広場(元老院広場)の一角に建っていました。大勢の観光客に囲まれている像は、ピョートル大帝(1世)の馬上像です。大きな石台の上に乗った馬の足もとには、権力の象徴といわれる蛇が這っています。大帝は北方戦争で戦ったスウェーデンをにらんでいるのだとか。
 像は1782年にエカテリーナ2世がフランスの彫刻家につくらせたロシアで最初の記念像ということです。石台に「エカテリーナ2世からピョートル1世へ」と書かれています。

●名付け親
 青銅の騎士の名付け親は19世紀の国民詩人プーシキンです。その叙事詩「聖堂の騎士」で「ここにこそわれわれは都市を築こう ヨーロッパへの窓をあけ…」と、ピョートル1世の町づくりへの意気を高らかにうたいあげています。
 騎士像は新婚さんの記念撮影にも人気。「花嫁さんの市場です」とユーリーさん。楽しそうな幾組かのカップルを見かけましたが、モスクワで聞いた離婚率50%が頭にこびりついて仕方ありませんでした。  

●ヨーロッパへの窓
 お邪魔しているサンクト・ペテルブルグは、聖堂の騎士像の主である大帝ピョートル1世が築いた町です。1703年にスウェーデン領だった領地を奪還。ペトロパブロフスク要塞を造営し、建築物が調和した理想都市の実現に向けて町づくりを進めました。
 漁民しか住まなかった湿地帯を「ヨーロッパへの窓口」にしようと、農奴を総動員して新都市建設に乗り出しました。そして、自らの守護聖人ペテロの名にちなんでサンクト・ペテルブルグと名付けのです。

●犠牲の産物
 そして誕生したのがボルガ川や運河沿いに建ち並ぶ優雅なヨーロッパ風町並みでした。「北のベニス」とか「水の都」と称えられるサンクト・ペテルブルグですが、建設に当たっては多くの犠牲者をだしました。
 厳しい気候や過重な労働で多くの農奴が殉死したため「屍の上に築かれた都市」と、冷ややかに揶揄されたりするそうです。

●ピョートル大帝(1世)
 サンクト・ペテルブルグの生みの父、ピョートル1世はロマノフ朝の5代目モスクワ大公でした。初代のロシア皇帝になり、2mを超す巨体からピョートル大帝とも称されました。在位は1682年から 1725年 まで。エカテリーナ1世は後妻です。
 ロシア海軍を創設して黒海への出口を確保したり、大外交使節団を西欧諸国に送るなどして軍の近代化を進め、1721年に正式に皇帝(インペラートル)になりました。 

●帝政ロシアの首都
 ピョートル1世は1712年に家族ともどもこの地に移住し、モスクワに代わる帝政ロシアの首都にしました。 
 遷都後、湿地干拓して用地を拡大して港湾施設を整備。また、ヨーロッパから建築家を招いて近代都市としての体裁を整えました。その結果、ロシアには珍しい西欧風の雰囲気が漂う「ヨーロッパに開かれた窓」と呼ばれる近代的な町に発展したのです。
 町は1918年、再びモスクワに遷都するまでの200年あまりの間、ロシアの政治、経済、文化、芸術の中心でした。

●都市の仕上げ
 話はやや堅苦しくなりますが、昼食レストランへ向かうバスが渋滞に巻き込まれている間を利用して、もう少し町づくりについての講釈を続けます。
 ピョートル1世によって近代化されたサンクト・ペテルブルグを、さらにしゃれた都市に衣替えさせたのは女帝エカテリーナ2世です。

●フランス風に
 ピョートル1世が派手なバロック様式好みだったのに対し、エカテリーナ2世はフランスのパリをモデルにした優美なクラシック様式の街づくりに精を出しました。
 都市整備の仕上げは、19世紀前半のニコライ1世によって進められ、イサク聖堂や新エルミタージュ宮殿、冬の宮殿の改修などを成就させました。
 このようにして、いま目の前に連なる町並みが完成したわけですが、建物の傷みも多く、あちこちで修理のための青い覆いが目立ちます。

●名前の変遷
 サンクト・ペテルブルグがレニングラードと呼ばれていたのは記憶に新しいところ。それまでにも町の呼称は、さまざまに変遷を辿りました。     
 最初はオランダ語風のサンクト・ピーテルブルフ、次にドイツ語風のサンクト・ペテルブルクになり、ロシア帝国の首都として長い間定着したことはすでに記述したとおりです。
 しかし、第1次世界大戦でナチス・ドイツと戦争状態になってロシア語風のペトログラードに、旧ソ連邦時代にはレーニンにちなんだレニングラードに改称され、1991年に住民投票の結果、もとのサンクト・ペテルブルクに戻ったのです。 ロシア人の間では、ペテルブルク、ないしはピーテルの愛称で呼ばれています。

●姉妹都市
 サンクト・ペテルブルクは世界各国から観光客が押し寄せる人気の町です。姉妹都市としてももてもて。現在、縁結びをした市は16もあります。
 ドイツのハンブルク、クロアチアのザグレブ、イランのイスファーハンなど世界各地に及んでいます。日本では大阪市が1986年に姉妹都市の縁結びをしました。

●あっさり味
 12:40、バスはやっとの思いでレストラン「1913year」に着きました。1913年には曰わく因縁があるそうですが、聞き漏らしてしまいました。帰国後、年表を調べましたがわかりません。
 それはともかくメニューはサラダ、チキンスープ、ポーク、ポテトフライ、コケモモのゼリーなどでした。ロシアの食事はいまのところ口に合っています。寒冷地なので、もっと脂濃く、塩辛いと想像していましたが、日本人好みのあっさり味が多いので喜んでいます。

●豪華絢爛
 食事のあとはイサク聖堂に戻って堂内の見学です。写真撮影には50ルーブルが必要です。博物館や美術館、聖堂内などの国立の施設に関しては、政府が撮影料を決めているそうです。
 堂内はまさに豪華絢爛。聖書の物語や150人以上の聖人がいたるところを埋めています。ドームの天井にはカール・ブリューロフの「王座のマリア」、イコノスタシスのアーチ天井にはイタリア人画家フョードル・ブルーニの「最後の審判」が描かれています。

●必見の壁画
 他にも「預言者エゼキエリの幻」や「大洪水」など必見に値する壁画が目白押しです。天使の像は下から見上げたときにバランスが良くなるように、上半身を長く、短足にするなどの工夫も観られます。
 祭壇の両脇には聖人のイコンが。本を持っているのは聖パウロ、スケッチブックを手にしているのは聖イサク、設計図を持っているのは聖ニコライ…などです。

●花崗岩の円柱
 青銅自体にも見どころはたくさんあります。まず扉です。重さ20トンもある扉は堅い木と青銅でできており、ロシアの美術家イワン・ウィタリの彫刻が施されています。
フィンランドから取り寄せたという重さ115dの花崗岩円柱も見事です。聖堂全体で112本もあります。イコノスタシスの外枠には孔雀石の柱が使われ、四方の破風にも精緻な浮き彫りが見られます。

●渋滞の渦
 首が痛くなり、肩が凝るほど天井を見上げていました。戸外にでたら目がくらくら。ずいぶん真面目に見学したものです。
 15:00、バスは血の教会へ向かいました。しかし、聖堂を出たとたんにものすごい渋滞の渦に埋没してしまいました。車が右から左からわれ先にと割り込んでくるので身動きが取れません。回りの様子を眺めながら辛抱するしかなさそうです。

●ピストルを持った猿
 信号機はあるのですが、守っているドライバーはだれ1人いません。すべてがわれ先の特攻精神です。車が重なっているのではないかと思われる団子状態。「危ない!」。ユーリーさんが叫びました。女性ドライバーがバスめがけて突進し、すれすれで割り込んできたのです。
 「女性はピストルを持った猿です」。ユーリーさんは憎々しげにつぶやきました。ピストルを持った猿?。「いつも危険」という意味だそうです。日本でも一時期、「1ヒメ、2トラ、3ダンプ」なんていわれたことがありました。

●無法地帯
 血の教会までは歩けば20分ほどの距離。それが30分経ってもほとんど進んでいません。「降りて歩こうや」との声も。ドライバーもしびれを切らしたのか、進路を変えました。
 ところがここも大変。対向車線にまで突っ込んでくる車で閉鎖状態。バスも負けていません。無法な対向車を威嚇するように車体を進めてなんとか進路を確保しました。イサク聖堂をひと回りするハメになったのですが、ここで1時間もの道草を食ってしまいました。
 ナンバープレートのないおんぼろ車がバスの横を堂々と走っています。衝突現場を何度見たことか。ロシアの無法はひどすぎる、車内全員のつぶやきでした。

●スパス・ナ・クラヴィー聖堂
 徒歩20分のところを1時間以上かかって「血の上の救世主教会」ことスパス・ナ・クラヴィー聖堂に到着しました。遊覧船が行き交うグリボエードフ運河沿いに建つ聖堂は、サンクト・ペテルブルグでは珍しい玉ねぎ坊主のドームを載せてたカラフル寺院でした。
 1881年3月、爆弾で暗殺された皇帝アレクサンドル2世を弔うために、息子のアレクサンドル3世が建立したものです。

●暗殺現場に
 聖堂は着工後24年の歳月をかけて1907年に完成しました。正式名は「キリスト復活聖堂」ですが、忌まわしい暗殺現場に建っているため、いつしか「血の上の救世主教会」と呼ばれるようになりました。
 血の教会というから、きっと陰鬱な感じがする地味な建物を想像していましたが、なんとなんと大違いでした。

●華やかな聖堂
 茶色を主体にしたゴシック風な外観。その上に載せた菓子細工のようなドームが艶やかです。見たことがある!。それもそのはず、モデルはモスクワの赤の広場で見た、あのワシリー聖堂だったのです。
 ロシア正教の聖堂は旧ソ連時代に弾圧を受けて閉鎖。野菜倉庫などに使われてかなり痛みました。血の教会もそうでしたが、1998年に修復を終えて一般に公開されました。

●堂内に
 ここもまた大変な賑わいです。貴族風の衣装をまとった男女のモデルもしっかり商売中です。女性モデルと肩を並べたツーショットが中国人観光客に大もてでした。この商売、聖堂の騎士像でも見かけました。
 破風のフレスコ画を見上げた後、堂内に入ってフレスコ画やモザイク画を見学しました。写真撮影は自由です。

●キリスト
 外観も華やかですが、堂内も天井や柱、壁一面が巨匠フロローフのモザイク画などで飾られています。ドームの天井におわす成人キリスト、天使に見守られる若かりし頃のキリスト、聖母マリアに抱かれた幼いキリスト…、そして聖人たち。
 中央の床には色とりどりの大理石を幾何学模様に描いたコーナーもありました。石の厚さは5mmだそうです。
 今回もまた、首が痛くなるほど見上げました。イコンだ、イコノスタシスだ、モザイク画だ…と、きょうはよく見ました。

●夕日に映える
 戸外に出ると、聖堂は夕日を浴びて一段と美しさを増していました。聖堂は高さ81m。4.5mの十字架を加えると85m近くにもあります。運河沿いに聳える豪華聖堂は圧巻です。
 17:10、バスはホテル・プリパルチスカヤへ。通りに「YAKUZA」という名の日本料理店がありました。ヴァシリエフスキー島の岬近くを通ると奇妙なデザインの赤い塔が2つ。有名なロストラの灯台柱でした。  

●ホテル・プリバルチスカヤ
 17:10、ホテル・プリバルチスカヤに着きました。ポーター不足というので、スーツケースを8階の自室まで手運びしました。
 エレベーターを降り、部屋にたどり着くまでに重い扉4枚を押したり、引いたりしました。部屋に近い4枚目の扉は部屋のカードキーを差し込まないと入れない仕組みです。4つ星ホテルにしては部屋はやや狭く、窓からはアパートしか見えません。
 ホテルは12階建て1200室。団体客が多く利用するマンモスホテルです。ヨーロッパ系のみならず、中国、韓国からの団体も見かけます。もちろん、日本人のグループも。

●レーニンも卒業
 今夜は町のレストランで夕食を摂った後、バレエ観賞の予定です。少しばかり休憩して、バスで外出しました。
 赤っぽい建物が見えました。1724年に建てられたサンクト・ペテルブルク大学で、レーニンやプーチン現大統領の母校です。見た感じは小さな校舎に見えますが、奥に長くのびた由緒ある総合大学です。

●血の教会も
 橋の上から横長のエルミタージュ美術館が見られ、黄色い建物群の奥には血の教会が聳えていました。ネフスキー大通りは夕刻の人出で賑わい、カザン聖堂が逆光の中に佇んでいました。
 車窓観光を楽しみながら、カザン聖堂近くのレストラン「ZOLOTOY OSTAP」に到着。メニューはトマトサラダ、ブリヌイ、ビーフストロガノフ、パルフェなどでした。

●ブリヌイ
 ブリヌイはロシア風のクレープ。「冬の終わり」を意味し、春に食べる料理とされています。クレープは薄力粉に卵や牛乳、塩、砂糖、ケフィール(ヨーグルト)などを混ぜ合わせて薄く焼いたもの。
 それにイクラやキャビア、野菜などの前菜を包んで食べます。ジャムなどを包んだりもするそうですが、今夜はイクラでした。料理はどれも美味しかったです。

●バレエ観賞
 最後の日程はバレエ観賞です。ミュージカル・コメディー劇場は近くでした。開演中の写真撮影は禁止、との注意を受けて入場しました。席はグループ内で抽選になり、5列目の中央が当たりました。
 演目は「白鳥の湖」。観客は団体のツアーが多いようで、前列は日本や中国の団体が占めていました。やがてオーケストラの音合わせ。徐々に雰囲気が盛り上がってきます。
 白鳥の湖 が「眠れる森の美女」、「くるみ割り人形」とともに3大バレエといわれて親しまれているのは、だれもが知っていること。  

●3幕の構成
 指揮者のタクトが上がって、チャイコフスキー作曲のバレエ「白鳥の湖」3幕が開演しました。第1幕は1場「とある城の庭園」、2場「湖畔」、第2幕は「舞踊会場」、第3幕は「再び湖畔」の構成です。
 王子の嫁選び、娘たちに変身する白鳥、悪魔の出現、華やかな舞踏、王子と姫のパッピーエンドなどの場面が優雅に、華麗に演じられました。

●感激、満足
 疲れているので、居眠りするのではとの杞憂は吹き飛びました。初めて観賞する本格バレエは想像以上に迫力がありました。観光客が目立つ劇場。出演者はA級とはいえないかも知れませんが、自分は大いに感激し、大満足でした。
 ロシアは音楽の国でもあり、傑出した音楽家が目白押しです。国民音楽の父と称えられるグリカンをはじめ、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフ、チャイコフスキー、ラフマニノフ、ルービンシュタイン兄弟といった日本でも馴染みの面々です。

●暗い夜
 すべての日程をこなしてホテルへ戻ったのは23:00。途中の町並みは意外に暗く、楽しみにしていた夜景はさっぱりでした。
 イサク聖堂などはライトアップされるとのことでしたが、ユーリーさんに言わせると「係がねって(眠って)いる」からだそうです。
 ユーリーさんの日本語もロシア語風発音。説明にも?と首をかしげることがしばしばあります。 


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