前編(国立敦賀病院編)


2005年4月20日
・国立敦賀病院入院
・肺炎、
・止血剤、抗生剤を点滴
 [状況]前日(19日)、旅行からの帰途に体調が急変して意識がもうろうとなる。「風邪」と軽く考えていたが、ますます呼吸困難になり、深夜、救急車で国立敦賀病院へ搬送。即入院。血痰があり、担当医のT医師が下した診断は「肺炎(びまん性肺胞出血)」。救急外来室で処置。とりあえず、酸素マスクをして状況を見守る。
[そのころの夢幻]
 自宅前にヘリコプターが降りた。何事と出てみると、3人の男がいきなり自分を抱きかかえて機内に押し込み飛び立った。着いたところは地下のアングラ医院。丸坊主の医師が「お前は脂肪の塊。断食しないと死んでしまう」と男女の監視役をつけた。
       
4月21日
・個室に移る
・CTスキャンなどとる。
 [状況]びまん性肺胞出血は膠原病などに起因する例が多いというが、自分の場合は原因不明とのこと。点滴などの処置を受け、CTスキャンを撮る。
 容態に大きな変化はないが、ときどき意識がもどるよう。
       
4月22日
・人工呼吸器
・面会謝絶に
 [状況]息苦しそうな様子なので、酸素マスクから人工呼吸器に替わった。パイプを口にくわえ、部屋の入り口には「面会謝絶」のプレートが張り出された。
       
4月23-25日
・抗生剤などの点滴
 [状況]血圧の上下動が激しかったり、高熱が続くが、自分は人工呼吸器や鎮静剤のおかげで苦しさを意識せず。抗生剤などの点滴が続く。
       
4月26日
・内視鏡で肺検査
 [状況]4:00ごろ脈拍が132、血圧200、高熱で息苦しい。内視鏡検査の結果、肺が胃潰瘍のようにただれており、T医師の上司であるM医師は「かなり危険な状態」との見方。
       
4月28日
・2度目の内視鏡
 [状況]2度目の内視鏡。今回は痰(たん)をとるため。T医師は「エコーで痰をとるのは大変なリスクがある。そのつもりで」と、妻に告げた。
       
4月29日
・血圧100-48に
 [状況]人工呼吸器ばかり頼らずに自分でも呼吸するように、とのT医師の意向で呼吸器の設定を変更する。しかし、この段階での自呼吸には無理があったようで、呼吸器に警告の赤ランプが頻繁に灯る。夜半、痰がたくさん出た。
 T医師はときどき様子見に訪れ、器具の設定を変えた後、「……」で引き上げて行く。無言というのは不安だ。

5月1日
・咳き込み
 [状況]T医師から「一両日に人工呼吸器を外す。患者の負担が大きくなるので、最悪のケースもあり得る」との話。意識がはっきりしているとみた妻は、できるだけ自呼吸をするように勧める。わずかばかりの自呼吸ができたものの本人は苦しそう。

5月2日
・抜管
・NIPPV療法
 [状況]朝から自呼吸のみに切り替えてテスト。12:00、抜管。人工呼吸器のパイプを外した。肺の中の二酸化炭素が多いというので、それを排出するためのNIPPV(ニップ)療法をする。口と鼻の両方にプラスチック製のマスクつけたひどい姿に。肺の中の二酸化炭素を排出し、酸素を取り込む療法だ。
 自呼吸すると苦しいので、ぶつぶつ文句を言う。妻の激励は耳に入らないようで、言うことを聞かずに困らせる。
 夜中になって「助けてくれ!」と大声を張り上げたり、妻には「何か食べさせろ」、「刺身も食べさせないで妻といえるか」などといちゃもんを付けたりする。精神的にもかなり参ってきたようだ。友人のTさんは「病気のなせること」というのだが…。

5月3-4日
・抗生剤点滴
・マスクの具合悪し
 [状況]鼻に取り付けたマスクが呼吸をする度にずれて、鼻をこするので出血し、脱脂綿を当てて応急処置。口の中も切れて血がにじんでいる。ゼリー状のものを食べさせる予定だったが、中止になった。抗生剤、栄養剤などの点滴が続く。
 口内が粘つくようで、水をほしがる。体力が日に日に消耗し、眠ることが多くなった。

5月5日
・何度か吸入
 [状況]血痰が多く出て、看護師が口内をきれいにしてくれた。午後からほとんど眠っている。夕刻になって意識がなくなり、口を大きく開けて荒い息づかい。17:00の血圧は114-56。ますます呼吸が荒くなる。妻はT医師に知らせてほしいと頼んだが、看護師は「さまざまな器具を使ったので疲れたのでしょう」と説明し、取り合ってくれなかった。心配した妻は義弟に様子を連絡。

5月6日
・危篤状態に
・再び人工呼吸器
 [状況]昏睡状態が続き、0:00の血圧は94-44。尿の出も少ない。硬直したように身動きもせずに眠り続ける様子は異常だ。ようやく異変を察知した看護師がT医師に連絡。0:40、二酸化炭素が増え、血圧も58-26に低下。事態はますます深刻になる。
 T医師から「危篤状態。親族を呼ぶように」と言われ、義弟夫婦が駆けつけた。その後も血圧は60-30前後で推移。意識不明の昏睡が続く。集まった義弟たちと妻は最悪の場合を考えて、親類などに連絡を取ってその時に備える。

 あまりの事態急変。「どんな状態になったら終わりですか」と尋ねた妻に、医師は「首の血管を指さして、ここが動かなくなったらお終いです」と応えた。
 昨日、看護師が医師に異変を伝えてくれていたら、こんなことにならなかったのでは…。妻は大いに悔やむ。

 T医師はニップ療法でも効果が見られなかったため、人工呼吸器に切り替えた。同時に血圧を上げる昇圧薬を目いっぱいの15まで使って対処。2:00、血圧104-60、脈拍64に改善した。 
 その後は頻繁に血圧や脈拍を測定しながら様子を見る。15:00に黒い便(血便?)が出、19:30には血圧120-69、脈拍88に。ひとまず危機は脱出できたよう。

 T医師は「血液検査の結果、二酸化炭素が減り、酸素が増えてきた。このまま人工呼吸器を継続してみる。しかし、危険な状態に変わりはない。今回は抜管(人工呼吸器のパイプを抜くこと)に失敗したが、次は慎重にします」といった。抜管が早すぎたというのだ。
[そのころの夢幻]
 3本の川が緩やかに流れている。川には板を横たえた渡しがあり、河原は石ころだらけ。手前の川向こうで昭和天皇と亡き長兄が石を積み上げながら、こちらを向いてにこにこしている。優しい笑顔に引き込まれるように渡しの板に1歩踏み出そうとしたら、背後から「どこへ行くの。行ったらあかん」と女声の絶叫が聞こえた。
 その声で我に返る。絶叫は妻の声に違いない。それにしても、なぜ昭和天皇なのか。あの川はきっと三途の川だったのだろう。我に返ったときが危篤状態から脱出できたときだったのではと思う。

5月7日
・尿の排出悪化
・腎臓用の点滴。
 [状況]容態がやや安定してきたので、昇圧薬は15から12に減少した。顔がむくんで丸くなっている。尿の出が極端に悪くなったためらしい。昼すぎ、腎臓用の点滴を開始。昨日に続いてまた黒便(血便?)が出る。 
 血圧、脈拍は15分ごとに測定。日中は薬効で125-70前後を推移。夜になってやや高めになり、21:15には138-89に。その間、看護師は吸入、痰とり、熱を下げるための氷など処置をする。痰とりはきつい。ときどきは意識が戻るらしく「苦しい」と訴える。床ずれで尻に水ぶくれができた。介護の妻は寝不足と精神的なダメージで憔悴しきっている。

5月8日
・体にむくみ
 [状況]夜中も苦しみながら何度か痰をとってもらう。意識がやや戻ったので、妻は義妹と交代して帰宅、久々にシャワーを浴びる。血圧は高めながら安定している。しかし、尿の出はますます悪くなって、足もむくみ始めた。

5月9日
・市立敦賀病院へ転移。
・人工透析を開始。
 [状況]尿の排出が困難になって体全体のむくみがひどくなってきた。T医師から市立敦賀病院への転移を指示された。
 妻に渡された病状・治療方針説明書によると、病名は最初の肺炎(びまん性肺胞出血)の他に横紋筋融解症、それに伴う急性腎不全が加わっていた。1回目の抜管に失敗し、6日に人工呼吸器に戻した後、横紋筋融解症が発生し、そのために急性腎不全が進行したという。
 最大の問題は肺よりも急性腎不全の方であり、それには血液透析が必要。腎不全を改善しないことには「死は免れない」とも記されていた。

 国立病院には透析の設備がないので、市立病院へ移ってほしいというわけ。「Nさんの場合、正直言って何をして良いのかわかりません」と言っていたT医師。いよいよ手の施しようがなくなったようだ。
 14:35、救急車で市立病院へ。T医師と看護師長が付き添い、酸素ボンベ、点滴などしながらの移送だった。
[そのころの夢幻]
 
口から血を吐いた男が道ばたに倒れている。通りかかりの青年が声をかけ、車で運ばれた。着いたところは、奈良県・吉野山の山頂にあるホテル兼病院だった。倒れていた男はおそらく自分だったのだろう。

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