●まさかの時はパスポート


 スカンジナビア半島のノルウェー。フィヨルド・クルーズ基地、パレストランドのホテルであった火事騒ぎに海外旅行の心構えを得た話です。

 日本人観光客がノルウェーでフィヨルド・クルーズするといえば、真っ先に候補に上がるのがソグネフィヨルド。私たちは翌日の観光に備えて、クルーズ船の基地で宿泊しました。
 ホテルは高速観光船発着場のすぐそば。白亜の小ぎれいなたたずまいでした。大きくえぐられた湾内の奥深く。目の前の海も静かです。
 
 町の人口は700人。木造の教会を中心に小さなホテルやサマーハウスが並ぶ田舎町。6月とはいっても夜はかなり冷え込みます。夕食後の外出もままなりません。ラウンジでコーヒーを飲みながら雑談し、11時ごろベッドに潜り込みました。

 寝入って間もなく、ベルのような音で眼を覚ましました。電話のベル?と思ったのですが、違いました。寝ぼけているうえに部屋が真っ暗。音源を探しているうちに音がしなくなりました。とんだ邪魔が入ったもの。機嫌を直して眠り直すことにしました。

 その直後、またまたベルの音です。それと同時に大声を上げながら階段を下りてくる人々。ただならぬ騒ぎです。けたたましい音源は入り口ドア付近に設置してある非常ベルでした。
 廊下をのぞいてみると、人々が雪崩を打つように非常口に向かっています。どうやら「火事だ」、「逃げろ」などと叫んでいるようです。大変!。のんびり構えている場合ではありません。

 睡眠薬を飲んで熟睡中の妻をたたき起こし、パジャマの上にウインドブレーカーを引っかけて非常口へ走りました。ドアのガラスが割れて散乱しています。
 中庭に出てみると、すでに20人ほどが非難していました。ほとんどの人が着の身着のまま。寒さに震えています。私はスリッパのまま。ガラスの破片を踏みつけて避難したようです。

 しかし、火の手は一向に見えません。階上から「なんかあったんですか」と見下ろすのんき屋さんもいます。私が避難してから10分ほどたったころ、ホテルの支配人がやってきて「非常ベルの誤作動でした」と説明。避難した人たちは安堵と憤懣とを混ぜ合わせたような表情で部屋へ戻りました。
 個人旅行らしい日本人の若い女性2人はスーツケースを引っ張っていました。用心が良かったのでしょうか。

 これが「真夏の夜の騒ぎ」の顛末です。しかし、この騒ぎを通して反省材料が出るは出るは…です。

 その一。パスポートや現金などを入れたウエストベルトを枕の下に潜り込ませていたのですが、それを置いたまま避難してしまいました。「本物の火事だったら」と思うとぞっとします。
 「海外でまさかの場合」に遭遇したときは、何はともあれパスポートを、でした。慌てていたではすまされない話です。 

 その二。火事場は危険です。それをスリッパで逃げるとは。こんな空騒ぎでも実際にガラスを踏んだわけですから。危ない危ないです。

 深夜の火事騒ぎは、当然のように食事時の話題になりました。「奥様が貴重品を腹に巻いて寝る」、「スーツケースは就寝前に整理しておく」など、など、今後の役に立つ話を聞くことができました。

 ただ一つ、自分をほめたかったのは、私が睡眠薬を飲んでいなかったことでした。夫婦共に服用していたら、この騒ぎはわからずじまいだったでしょう。

 「災いを転じて福となす」。それほど大げさなものではありませんが、大いに勉強させられた火事騒ぎではありました。 
           
              (1996年6月のことでした)